2023年2月21日火曜日

私の共感論 5

  ここら辺の議論をもう少し深めると、共感は共感の限界をも同時に示す作業であるということになるだろう。私達が誰かから本当に分かってもらえたと思う時、私達はその人とのかかわりを続けたいと願うものだ。でもそのうち「実はそれほどわかってもらってはいなかった」、あるいは「詳細部分はやはり理解し合えなかった」という体験が起きてくる。もちろんその人との関係性は、そうならないに越したことはないし、本当に分かってもらったと思えた人とその時点で何らかの理由で交流が断たれたら(転居、死別、その他さまざまな理由があるだろう)、相手は永久に「私のことを本当にわかってくれた人」となるであろう。ところがそのような関係が継続していくと、必ずどこかで「ああ、やはり本当には分かってもらえていなかった」となる。それは熱烈な恋愛の末に結婚したカップルのその後の話を聞けば、その大部分から聞かれることである。(正直言えば、相手が永久に「本当にわかってくれる」相手であり続けたというカップルの話を聞いたことは一度もないのかもしれない。あまり認めたくないが。)
 私はこのプロセスは精神療法ではむしろ普通のこと、あるいは必然のことと考えて「中立性と現実」を書いたのである。治療関係において、「共同の現実」はやがて破綻する運命にある。そしてそこからバージョンアップし、さらに精度を増した改訂版「共同の現実」もまた、やがて破綻する運命にある。そして治療者と患者はやはり互いに分かり合えない部分を有する(ただし分かり合えた部分も治療開始前に比べればはるかに広がった)他者同志として終結するのだ。ただしそれは治療の失敗ではない。「程よい」終結なのだ。その時点では、「これくらいわかってもらえればいいか。これ以上は期待しない方がいいし、あとは自分独自の世界なのだ」とあきらめ、同時に「自分だってそれほど他人のことをわかっていないではないか。」という認識をも持って終わるのである。

ただこの関係で治療者に大事なのは、できるだけ相手をわかろうと力を尽くすことなのである。これほど親身になってわかろうとしてくれている、ということが伝わることが大事なのだろうか。