2023年1月30日月曜日

精神分析と複雑系 2

  さてこのような議論が精神療法という分野の遅れを意味しているのだろうか?自然科学で起きた過去100年の発展のすさまじさを思えば、精神療法の世界は驚くほど歩みは遅いように感じられる。しかしそれは実は心の世界の複雑さ、多様さを反映しているものと考えるべきである。ある患者Aさんが心理療法家Bの治療を毎週一回、半年受けたとしよう。そしてある程度症状が回復したとしよう。しかし特殊な場合を除いては、この治療のどの部分が、B先生のどの言葉がAさんに響き、回復に至ったのかは不明だ。あるいはしばしば起きることだが、Aさんにとって心に残ったB先生の言葉は、B先生が満を持してかけた言葉とは異なる可能性が高い。それに半年の間にAさんが体験した精神療法外での様々な人達との様々な関り、服用した薬、あるいは自然治癒の可能性をどのように考えるべきか。そしてB先生が用いていたと信じているある種の治療手段、B先生がよって立つ学派が実際に彼が行った治療的な関りにどの程度影響を与えているのか。これらはことごとく曖昧なままである。さらにはBさんが「治療によりよくなったと思いたい」という願望はどの程度算入されるべきか。(お金を払って治療を受けた人はしばしば、それが効果があったのだと信じたいだろう。いわゆる「サンクコスト」の問題とも関係してくる。)あるいはAさんが「何となくよくなった」というとしたら、それを効果としてカウントするのだろうか。この様に精神療法の何が効果的かという問題はあまりにも多くの要素が含まれてしまって科学的な検証がほとんど不可能なほどに込み入っているのである。

これは例えば天体望遠鏡の精度をさらに向上させて解像度を高めていく作業、加速器のエネルギーをさらに高めて高い電圧で粒子同士をぶつけて更なる素粒子を発見していくというような研究の持つ、先鋭で明確な方向性とは全く異なる話なのだ。

結局ただ一つ明らかなことは、人は心の苦しみを人に話すことで救われることが多いということでしかなかったりするのだ。いわゆる関係精神分析はそのレベルにまで立ち返って精神療法について考えていくという立場を有するが、それに対して多くの療法家が「こうすべし」という方針を示してもらえないことを不満に感じるのである。