2023年1月26日木曜日

脳科学と心理療法 6

 一部書きなおした

脳科学の前に精神分析だった

 ところで私は今この連載の初回の部分で、私がいつから脳科学に興味を持ったかについて、私が精神科医になった時に遡って振り返っているのであるが、ここまでのところではその兆候は少しも見られていないかも知れない。むしろそれとは反対だったのだ。ただここはもう少し寄り道をしながら書いていきたい。
 だいたい私は心のあり方が脳の組織を知ることからわかるとは最初から考えていなかった。私が医師となった1980年代と言えば、ようやく解像度の低いCTスキャンが実用化されるようになった時代であり、脳の活動を時間を追って画像で表示するfMRIのような技術など考えられなかった。精神分析はひとことで言うならば、脳を介さずに患者の心に迫る手法である。その代わり心の働き方にいくつもの仮説を設け、それに基づき治療を実践していく。そしてこれは実は赤レンガの風潮と特に矛盾はしなかった。

ということで私が脳科学に興味を持つ前に情熱を傾けた精神分析の話になる。少し唐突なようだが、実は赤レンガの掲げる反精神医学の精神はフロイトの生み出した精神分析に求めることが出来る。すでに名前の出たレインやガタリ、ドゥルーズといった人々はまずは精神分析を学び、その後独自の立場を切り開いていったのだ。彼らの本にはフロイトはしばしば顔を出し、フロイトを引用したりしている。人の脳を知るのではなく心そのものを知るという発想は精神分析も反精神医学も共通していたのである。

精神科の薬物療法が始まったのは1970年代からであるが、精神分析も反精神医学もどちらかと言えばこれに反対であったことは特筆すべきであろう。「薬で手っ取り早く心の悩みを治す、というのは邪道だ」という姿勢が彼らの間にはあったのだ。フランスからガタリが我らが赤レンガ病棟に訪れたことがあったという。その時ガタリは「君たちはまだ薬なんかを使っているのか」と言ったという逸話を聞いたことがある。そんな感じだったのだ。

その頃私はなぜ精神分析に期待を寄せたのだろうか。大した理由はなかったのかもしれない。そもそも私は精神分析とはいったいどういう学問かということについて、何も知ってはいなかった。医学生時代にフロイトの「夢判断」を文庫本で読んだことはあった。しかし「これはついて行けない」と投げ出してしまったが、それは自分の理解力が追い付いていないだけだと思った。ましてや精神分析理論に疑問を持ったり反対の考えを持ったりするようなことなど考えられなかった。