2023年1月27日金曜日

脳科学と心理療法 7

 その頃の私は「何かの道を究める」という姿勢だけは確かにあり、その対象は人の心だということはすでに決めていた。「精神分析」という名称はいかにも人の心を分析探求するための学問という雰囲気があった。そしてもし実際の精神分析を学んでみて、それが心を解明してくれるには不十分であると感じたならば、自分が新しい精神分析理論を発見すればいいのだ、などと思っていたのだ。ただし精神分析というシステムはその中で修練を積んでそのヒエラルキーの階段を上っていくという構造を有し、それ自体がとても魅力的に感じたのである。
 私はアメリカで息子の空手道場への送り迎えを8年ほど続けたから、彼が空手をそれだけ続けることが出来た一つの理由がわかる気がする。それは白帯から黄色帯、緑帯、青帯、赤帯、と級ごとに色が変わっていく道着の帯がとても動機づけに役立ったからだ。社会主義国の軍人のつけている紋章みたいなものかもしれない。精神分析もそのような追及すべき道を可視化してくれているシステムなのだ。
 それはともかく、この頃の考えについて振り返ると、私は全くあきれるほど高慢な考えを持っていたわけだが、いまから考えると私は精神科医としての駆け出しのころから、ある一つの点に関して、明らかに「脳科学的」な興味を持っていたということが出来る。それは快と不快の問題にいわば取りつかれていたのである。
 人間の心の本質など知る由もない。ただし人の心には、とても明らかな原則がある。それは私が快を求め、そして不快を回避しながら生きているということである。これはどうしてだろう、と考えると、これは意志の力というよりは脳の仕業だろうと思えたのだ。フロイトが「快感原則」と呼んだこの原則は人の、あるいはおそらくあらゆる生物の行動を規定しているように思えた。
 もちろん私たちの行動には不快を及ぼすものもある。例えば朝はまだ眠くて布団にこもっていたいが、それでもわが身を叱咤して布団から起き上がる。これは自ら不快なことを選んではいないか? しかし少し考えればそうではないことに気が付く。私は朝布団にこもったきりになることで将来何が起きるかをどこかで予測している。私が担当している外来をすっぽかしたら、30人以上もの患者さんに大変な迷惑をかけてしまい、後悔してわが身を恥じることになるだろう。私は想像の世界の中で先取りしたその様な不快体験を、あたかも実際に味わっているかのように一瞬体験しているはずだ。それよりは布団を抜け出すことの方がはるかにましだと判断して着替えをして出勤のための支度を整える。つまり結局は私は快を求め、不快を避けるという原則に従っている。
 その頃強迫神経症の患者さんとの経験を通じて馴染み深くなりつつあった強迫症状についても全く同じことが言える。その男性は手を30分は洗わないときれいになった気がしない。もちろん長時間手を冷水に晒してこすり続けることは苦痛だ。ところがそれをやめてその場を去ることによる不安を想像すると、手を洗い続けることの方がよほど「不快の回避」なのだ。
 すると人間の知能とは、最終的な、あるいは想像出来うる範囲での未来の快不快を先取りして自らの行動を決めさせるために用いられるということになる。しかもこれをいちいち考えることなく、脳が自動的に行っていることになるのだ。そしてこのような問題について考え続けることは、私にとっては立派な「脳科学」だったのだ。そしてこの快を求め不快を回避するという心のシステムが一体どのように私の心に備わっているのかということに、私は尽きせぬ魅力を覚えた。
 このころの私はまた安永浩先生の「ファントム理論」であった。当時東京大学医学部附属病院分院の精神科助教授だった先生が1977年に出版した「ファントム空間論」は心の働きを論理的に追求した画期的な本であった。ただしこれも脳科学ではなかった。ただ私にとっては脳科学より魅力的な理論だったのだ。まあファントム理論のことは簡単にその概要をお伝えできることはとてもできないくらい奥深い理論なので、ここでは名前を出すだけに留めたい。