2023年1月14日土曜日

ソフトかハードかという問題についての補足

 ある本(ソームズ 「神経精神分析入門」(岸本寛史訳)p26)を読んでいて、フロイトがこれに関することを言っていることが分かった。いうまでもなく、フロイトは神経解剖学的な心の理解である。フロイトが最初にもくろんでいたのは、「心的装置psychic apparatusが解剖標本の形でも知られている」ということだった。

そこでフロイトは、「足場と建物を一緒にしてはならない」という言い方をしている。

この時点で恐らくフロイトに神経ネットワークが意味することは解っていなかった。ちょうど機械のように、あるいはフロイトの比喩でいえば、光学顕微鏡のレンズが順番に並んでいるように、心の装置がそのまま脳に定位されていると考えていたのであろう。そしてソフトウェアという考え方と心的装置とは非常に近いということが分かる。例えばフロイトが意識、無意識、前意識としてとらえた構造は、おそらく彼の頭の中で脳でもそのような局在が存在すると考えられていた可能性がある。後の構造論で出てくる「超自我」も、おそらく彼は脳のどこかに局在することを信じていたのではないか。

何かこの話、いわゆるintelligent design (略してID)の問題にも近い気がしてきた。インテリジェントデザインとは結局神のような姿勢を持った何かにより設計されているという理論だ。ソフトウェアを考えるとは結局そういうことになる。意識を持った私たちは何事にも私たち自身を投影する。すると例えば自然現象でも、雷を「神の怒り」のように、つまりある種の意図を持ったものの結果として理解しようとする。そうすることで初めて「わかった」という気になるのだ。すると人間の心についても、ソフトウェアとか心的装置とかを持ち出す時にすでにそこに意図をもってつくられた何かを想定していることになる。そういう形でしか私たちは「わかった」ということにならないのだ。そして私が脳にソフトウェアがないという時、脳は同じような意味では分かりようがないということを主張したいのだ。これは前野隆司先生の、心は幻想であるという議論とも近い。