2023年1月13日金曜日

脳科学と象科学 3

 進化そのものにもシナリオはなかった

進化について考えることは、脳科学とは違うのではないか、と言われそうである。しかし実はそうではない。人間の(別に「動物の」でもいいが)心が進化していくプロセスと同様に、進化のプロセスにもシナリオ、プログラムがない。進化については自然界において突然RNAないしそれに類似した物質が出現して(その経緯については専門家の間で定説は存在しない)自己複製をし始めたところから始まる。そのあとは様々な突然変異や、ウイルスその他により持ち込まれるRNADNAなどによりその構造の複雑さが増し、それを持った多くの個体の中で生存に有利なために生き残ったRNADNAが受け継がれていく、ということが途方もない年月をかけて行われたのだ。そしてそれとともに生命体は進化していったと考えることが出来る。
 人の心はどうだろう。生下時は何も知らないしわからないが、いくつかの反射のプログラムはハードウェアとしての脳に埋め込まれている。そして人間の心は自分の体内環境や外界の環境、特に他者との触れ合いにより一から学習をしていく。
 もう少し具体的に見ようか。母親を前にした赤ん坊は、そこで自律神経が安定し、不安を和らげるような体験が得られる限りは、そこで受ける十分に穏やかなレベルの刺激には快感を得て、それは自然と笑顔や笑い声となって表現される。するとそれは母親にとってもよい刺激となり、母親はさらに赤ん坊にとって心地よい刺激を返す。それは抱き上げたり、体を擽ったり、授乳をしてくれたりという体験であろう。赤ん坊はそれを快と感じ、それが母親への自然な愛着として発展する。そしてやがて母親との間での言葉のやり取りを通して言語を習得していく。
 赤ん坊には言葉を記憶したり、母親の心にあることを感じ取ったり、未来を予測したり、過去の記憶と現在の体験を参照したり、ということが出来る能力が備わっていることは確かだ。そして例えばいくつかの単語を学び、記憶に留めているうちに抽象概念を習得し、あるいは複雑な語順を習得することで意味ある言葉を発するようになる。これらのプロセスにシナリオやソフトはない。ただそれをしようとした場合に出来るようなハードウェアは備わっているというべきだろう。
 たとえばお母さんが「おっぱいが欲しいの?」と繰り返すことで、子供は「おっぱい」と自分で言葉を発して母親に授乳の催促をするようになるだろう。しかしこの芸当はチンパンジーにもできないし、ワンちゃんでも無理だ。これは人間の脳にはあるプログラムが備わっていて、ワンちゃんにはそれがない、という問題ではない。ワンちゃんには複雑な音声を出すだけの咽頭や舌や唇の動かし方のバリエーションが備わっていないから、人の言葉を繰り返すということはできない。ところが「お散歩?」と聞くと途端にしっぽを振ってそわそわしだし、「ワン」と吠えることからも、言われたことの内容をとてもよく理解していることが多い。
 ちなみにワンちゃんは嗅覚が鋭いので別の犬の個体と出会うと相手の肛門腺のにおいをかぎ取り、そこに様々な物質を識別することが出来る。あるいはペンギンだったら、自分の産んだ卵からかえったひなの鳴き声を、そのほかの何千羽と区別する能力がある。これらはいずれも人間には備わっていない。
 すると人の脳は様々な体験を記憶し、反復し、相手に何かのメッセージを伝えるための言語野が存在していて、様々な学習を可能にしてくれるようなハードウェアがそこにあるというわけだ。そしてとても都合がいいことに、個々の体験は快や不快という体験に結びつくことで学習がより容易になる。快を伴っていることは繰り返そうとすることでより深く習得され、不快なら回避しようとする。またおそらく幼少時には新しい事柄を記憶していくことそのものが極めて大きな快感を起こさせるためか、乾いた砂が水を吸収するように、体験を記憶していく。このように考えると人の脳はいくつかの反射のパターンと記憶を通して反復して習得することを可能にするような様々に分化した大脳皮質が刺激と出会うことを待っている。そう、やはりPCでいうところのソフトウェアの出番はない。そこにあるのはあらゆる機能を習得することが出来るようなハードウェアとしての脳が存在するばかりなのである。