ソフトウェアとしての脳科学なんてアリか?
脳というハードウェアに心というソフトウェアがインストールされていると考えてみよう。するとこれは脳と心の関係にうまくなぞらえることが出来るように思う。パソコンにこれほどなじみ深くなった私達なら容易に納得していただけるのではないか。私たちはパソコンにソフトをダウンロードして、ディスプレイに展開される様々なイメージや音に魅了される。そのソフトウェアは結局はAならB、BならC・・・・というような単純なコマンドの膨大な集積であることを知っている。プログラムを組んだ人の頭の中にはその内容が頭に入っていることだし、その気になれば私多たちはその何百万行にもわたるコマンドを一つ一つ読むこともできる。しかしそのソフトウェアの内容はパソコンというハードウェアのCPUやRAMやハードディスクやそれらをつなぐ細かな配線を調べることからは得られない。それは心というソフトウェアを知ることには直接つながらないだろうからだ。例えばCPUを冷却するファンにしても、その回転数がソフトウェアに影響を与えるようには思えない。その様な影響があるとしたら、ファンが壊れてCPUが熱を持ってしまい、ソフト自体が動かなくなってしまうことくらいである。
さて私が馴染み深く思った精神分析理論も、快や不快の原則も、そしてファントム空間論も、脳というハードウェアに対するソフトウェア的なものについての有用な仮説を提案してくれているように感じさせた。それは心の本質により迫るような気持ちを私たちに起こさせたのだ。だからそれらも私にとっては依然として「脳科学」なのである。
フロイトの局所論モデルも構造論モデルも、いわばソフトウェアの仕組みを説明するためのものだったということが出来るだろう。フロイトが脳の神経細胞の在り方から心の理論を打ち立てようとして失敗した「科学的心理学草稿」(1895年)の後に、それとは全く異なる心の理論を描いた時、それは脳のハードウェアの議論からソフトウェアの議論へとスイッチしたものとしてとらえられるのだ。そしておそらく私の脳に対する関心も同様のものだった。ところがそれから私が知るようになったのは、脳に関してはソフトウェアもハードウェアも区別がつかないような存在であるということである。ハードウェアとしての脳がそのまま心を構成しているのである。もはや両者を区別する意味は存在しない。
ソフトウェア=ハードウェアとはどういうことか。例えば脳の働きを画像で見ることが出来るようになってきている。すると例えばfMRIによりみることのできる脳の興奮のパターンは、その時心が何を体験してるかにかなり対応している。脳の局所的な興奮のパターン(ハードウェア)は、その人が何を体験しているか(ソフトウェア)をある程度言い当てることが出来るほどに対応しているのである。