2023年1月24日火曜日

脳を裁くことは出来るか 4

 神経ネットワークとしての脳の姿を知った私たちがとりあえず行きついた考えは次の通りだ。「心とは要するに脳の機能ということである」。ネットワーク間を流れる電気的な信号の流れがそのまま心というわけである。その様な情報の流れがかなり特殊な形で起きている時に、心が忽然と姿を現す。そういうものだ(詳しくは「受動意識仮説」前野隆司先生。実は米サンフランシスコ州立大学のエゼキエル・モーセラ博士らの説がオリジナルともいう)。

そこで一歩踏み込み、「信号の流れ」により行き来するのは何か? それを仮に「情報」と呼ぶのであれば、それの行き来が心のあり方ということになる。そしてそれはジュリオトノーニが唱える情報統合理論のエッセンスということになる。そこでは要するに情報のやり取りが心を作り上げているというものだ。
 しかしこのようなとらえ方は私たちが日常生活における心の営みにはマッチしていない。バーチャルな私たちの心は、「自由意志」を信じている。そこには本当の意味での悪意や善意が存在し、前者は非難されるべきであり、後者は歓迎されるべきだと考える。そしてそれが犯罪や刑罰という考えを生む。本来は自由意志などないのに、どうして悪意を想定できるのか。この問題は私たちにジレンマを与えかねない。

犯罪学の権威であった福島章先生(もと上智大学名誉教授、昨年8月に没)は精神科医であり、もともと精神分析に造詣が深かった。殺人者を含む犯罪者の心理に関して分析的な考察を発表していた方だが、ある時から考えを一変させてしまったという。それが「殺人という病」(金剛出版、2003年)に著されている内容だが、1970年代、80年代から用いられるようになったCTMRIなどの脳画像技術は彼の考えを一気に変えたという。それは「殺人者の半数以上に脳の形態以上があるのに比べて、殺人以外の犯罪者のそれは14%にすぎない」という研究結果であったという。(この問題は以前に書いたことがある。自著「脳から見える心」(p33)から引用してもいいだろう。)

 その時代からさらに脳科学的な知見は進み、最近ではサイコパス的な脳の特徴がいろいろ知られるようになってきている。(ジェームス・ファロンの「サイコパス・インサイド」という本などはすでに別の個所で紹介したことがあるが、秀逸である)。するとどうしても次のような考えに行きつく。殺人者は本当に責められるべきではないのではないか? そのような脳を持って生まれてしまったという意味では、彼らはむしろ犠牲者ではないのか? 

脳科学的にサイコパスの人の特徴は、いわゆる眼窩皮質という部分と扁桃体という部位の機能不全であるとされる。前者は人間の衝動を抑制するところである。また後者である扁桃体はニューラルネットワークからなる脳の中では独特の、というか特殊な役割を担っている。この部分はいわば情動を扱う部分であり、恐れ、不安といった感情を起こさせる部分である。すなわちサイコパスの脳は残虐な行為を行う際に、恐れや不安を伴うことのない、いわば純粋な快感を覚え、それを抑える力を欠いているということだ。この眼窩皮質の機能を行動のブレーキ役だとすると、彼らはいわばブレーキの利かない車を運転していることになる。しかもそこには先天的な要素がかなり大きいわけだ。つまり生まれながらにしてこのニューラルネットワークに欠陥を備え、サイコパスになる運命を半分背負ってこの世に生まれたのである。(もちろん環境因があるから、一応「半分」としておく。しかしその環境でさえ、本人が選択の余地があったかは疑問である。)
  もちろんそのために彼らが残虐な行為を行った場合、その犠牲者や家族の憤りは想像を絶するものがあるかもしれない。彼らは厳しく罰せられるべきである! しかし「罪を憎んで人を憎まず」という表現もある。同様に「を憎んで人を憎まず」という表現が当てはまるかもしれない。そもそも「脳を憎む」という言い方が何を指すかは不明だろう。

でも一つ言えることは、心が脳の産物であるということを認める限り、犯罪行為のかなりの部分は脳の形態異常や薬物の影響ないしは精神疾患が関係していることになり、善悪という判断とは別に物事を見る必要が生じてくるであろうということだ。
 遺伝以外にも様々な興味深い所見が報告されている。先進諸国の人々がかなりの割合で感染しているというトキソプラズマという原虫(一種の寄生虫)がある。猫などを介して人に移ることが多い。この原虫の中枢神経への感染により、衝動行為や自殺、サイコパス的な行動が高い率で見られるようになるというのが最近話題を集めた知見である。トキソプラズマを憎んで人を憎まず????

 脳の細胞内にぎっしり詰まっている餃子のようなものがこの正体だ。色々研究が進んで、こいつが特殊な蛋白を出し、それがアルツハイマーや癲癇やパーキンソン病や脳腫瘍と同様の病変を引き起こすというのだ。つまりは健康な神経細胞間の信号の伝達を阻害して健康な脳の機能をむしばむ悪いやつなのだ。まさに「トキソを憎んで人を憎まず」というわけなのだが、例えばサイコパス性に関連する衝動性は、生まれつきの配線の問題と、本来は問題のない配線が、原虫によりむしばまれ、電気の流れが滞ったり、途切れたり、という問題の両方で生じるということを表しているのだ。