例えば必要でないのにやらされていると思っているフィジカルエクササイズは、自分から積極的に行っている場合に比べておそらく苦痛も大きい。そしておそらく心身の健康を害するようなストレスとなっているであろう。
あるいは同じような境遇でも、自分が不幸だと思えば不幸になり、幸せだと思えば幸せになるという、いわゆるポジティブ思考の考え方藻これに相当する。最近人に勧められている“You Are the Placebo”「あなたはブラシーボ」(ジョー・ディスペンザ)という本が全面的に主張していることだ。
ある奴隷がふと考える。「自分は人として扱われていない。なんて不幸なのだろう。自分のつかえているご主人様もその家族も何不自由ない生活をしている。子供達は学校に行き、栄養の行き届いた食事をしている。ところが自分にはそのようなチャンスは一向に与えられない。来る日も来る日も給料ももらえずに辛い労働を強いられる。何という悲惨で過酷な酷い境遇だろう」。これは彼にとって相当な自己愛的なダメージを与えるかもしれない。しかし彼らの多くは悩みを抱え、うつ状態になり、時には自殺の衝動に駆られていただろうか。おそらくそうではない。一番の理由は、奴隷は割り切っていて、それが自分の分だと考えるために、特に不幸ではなかったということである。それに比べてそれまで何不自由なく過ごしていた人がいきなり奴隷の身分になれば、それこそトラウマになるだろう。
同じ境遇で同じ重労働を強いられても、ある場合にはトラウマになり、別の場合にはそうならない。トラウマ的な環境は、本来自分が被る必要のない、そうするべきではない苦痛を体験しているという自覚がある場合に生じるのではないか。つまりその環境にない自分を想像することで、ますます自分の置かれた境遇との「落差」を感じ、それがトラウマになるのだ。
考えてもみよう。昔人間の生活に水道はなかった。夏の冷房などもなかった。ところがいま現代社会に生きている私たちは、突然水道が止まったり、エアコンが壊れたりしたら、とんでもない苦しみを味わう。私たちがもし都内でひと夏冷房なしで過ごすとしたら、毎晩毎晩苦しむことになるだろうが、半世紀前だったらそれが当たり前だったのだ。というより、私も大学3年の夏までは、冷房なしの夏を過ごしていたのだ。エライだろう!!その頃の夏は、大変だが悲惨では少なくともなかった。扇風機で結構なんとかやれるものである。
そう、「大したことない、なんとかやれるじゃないか」というメッセージが自分の中から生まれるとしたら、ストレスは本当にストレスではなくなる可能性があるのだ。しかしそれを人から言われると当然「わかってもらっていない!」となるのである。
トラウマ理論に即していうならば、主観的な苦しみがストレスの量となり、それがトラウマのレベルにまで至るということになる。この「主観的な苦しみ」にはかなりの偶発性が入り込む。「本来はこうなるはずではなかった」「自分の学生時代の同級生はみな体験しないようなことを、自分は体験させられているのだ。つまり自分だけが不幸なのだ。」と思うことでその苦痛は簡単に増してしまうのである。そしてそこで体験される苦痛=ストレスはストレスホルモンの産生や免疫系の異常を生み、身体的な不調を呼び起こすのである。