2023年1月16日月曜日

脳科学と象科学 4

  心にプログラムやソフトウェアがないというと、私はすぐさま反対意見に遭うことになる。(というか自分から進んでその役を買って出ている。)「だって本能があるじゃないですか?あれってすでに脳にインストールされているプログラムではないのですか?」

たしかにそう思えるかもしれない。前回の最後にも書いたとおり、ミツバチは誰から教わらなくても、口から蝋のような物質を出して巣を一つ一つ作っていく方法を知っている。これらは蜂の神経系に最初からプログラムされているとしか考えようがない。そして下等になればなるほどプログラムはその生命体の行動を大きく支配することになる。しかしだったらそのプログラムをアンインストールすることが出来るかというとそうでもない。それはあたかも機械仕掛けのからくり人形のように、ハードウェアそのものに備わった性質なのだ。でもそれでもそれはプログラムと呼ぶのであれば、それを一種のソフトウェアとみなして脳にはじめから出来上がっているものと考えてもいい。確かに人間にも本能があり、喉に食塊が差し掛かれば自然と嚥下反射が起き、また年頃になれば異性(多くの場合は、である)に近づくと頭がカッカしてきて体がむずむずしてくるだろう。そしてそれらの多くは脳の神経の配線に依存しているであろうし、それは元をただせばDNAという設計図に全面的に依存していることになる。それは間違いがない。

では身体性を差し引いた純粋な心の部分はと言えば、それはおそらくプログラムとしては存在しない。DNAのどこを探しても心の動かし方を示すようなコードは見つからないであろうと私は考えている。それは脳というハードウェアがコツコツと学習していくものである。

そう、私が言いたいのはこのことだ。心とはハードウェアとしての脳が学習していることだ。それは脳に刻まれているのだ。ここの部分はわかりにくいだろうか。恥を忍んでとても卑近な比喩を用いたい。

ここに一枚のあみだくじがあるとする。1を選ぶとAに行きつき、2を選ぶとBに行きつき、3を選ぶとCに行きつくというシンプルなあみだくじだ。これはプログラムだろうか?あるいはソフトウェアと言えるだろうか?そうとは言えないだろう。なぜならこの梯子を表す線の一本一本は実は現実の神経線維だからだ。