結果的にかなり書き直しているが、とても勉強になる。
発達障害(DD)とパーソナリティ障害(パーソナリティ症、以下PD)の鑑別診断のポイントは何か? 私が与えられたこのテーマは、最近しばしば話題として取り上げられ、またある意味では答えに窮する問いである。しかし診断がある極めて明確な定義を持ったゆるぎない体系であるという考えを捨てるなら、意外に簡単に論じることが出来るかもしれない。
そもそもPDは「青年期又は成人早期に始まり、長期にわたり変わることなく、苦痛又は障害を引き起こす内的体験及び行動の持続的様式である」(DSM-5)とされてきた。すなわちそれは成育環境に影響されつつ青年期以降に固まるものという含みがある。しかしDSM5における代替案として、そしてICD-11において正式に採用されたディメンショナルモデルは、これとは別物という印象を与える。なぜならそれらは健常者を対象として考案された、パーソナリティを構成するいくつかの因子(例えば5因子モデル)に基づき、それが過剰(あるいは過少)な場合の病理的な表れの方向からとらえたものだからである。すなわち多分に生得的、遺伝的なニュアンスを含むことになる。
他方で発達障害は、「典型的には発達早期、しばしば小中学校入学前に明らかになり…」(DSM-5)とされ、こちらはもっぱら先天的な要素が重視されるのは当然であろう。精神医学の一般常識では発達障害は生まれつきのもので治癒は望めないものという含みがある。ただしもちろんその深刻さの度合いや社会適応については恐らく成育環境が大きく関係することになろう。
この様に考えるとディメンショナルモデルでとらえたPDとDDはかなりの共通項を持つと考えざるを得ない。その意味で両者の異同や鑑別が議論されるのは必然なのだ。
個人的なことを言えば、1982年に医師になった私はDSM-Ⅲ世代であり、そこで明確に記載されていたPDの中でも、BPD,NPDなどに並んでスキゾイドPDにはそれなりに関心を持った。スキゾイドメカニズムという概念は精神分析で重要な位置を占め、それとボーダーラインとの区別などが重要な論点となったのである。英国の対象関係論的なスキゾイドは、口唇愛的な愛情により対象を破壊してしまうことへの不安(フェアバーン)がその基底にあり、見えにくいがアクティブな情緒の存在を前提としていた。ところがDSM(Ⅲ,Ⅳ・・・)の定義するスキゾイドPDはあたかも感情そのものが欠如しているような描かれ方をしていて、対象関係論的なスキゾイドとは似て非なるものであることが興味深かった。前者のスキゾイドは米国の人気ドラマ「スタートレック」に登場するドクタースポックを彷彿させるような、人間的な感情が希薄で、そもそも対人関係に関心を持たないロボット的存在として描かれていることに興味を持ち、またその「スキゾフレニア」の近縁性を含意していることも理解し、それにあまり疑問も抱かなかったのだ。つまりこの概念を無批判に受け入れていたのだ。ただし実際の臨床場面でこの診断を下すことが意外に少ないことにもどこかで気が付いていた。そこには二つの理由があった。
一つはいわゆる自閉症スペクトラム症の概念が脚光を浴びるようになったからである。2000年代以降にASDが盛んに論じられるようになり、この診断をいったん疑いだしたらかなり多くの患者に(あるいは先輩や同僚に!)当てはまることに気が付くようになった。そしていつの間にか、対人関係や学業上の問題を考える際に、ASDの要素はないかと考えることが習慣化し始めていることを自覚するようになったのである。
もう一つは恐らくDSMのスキゾイドに該当する患者そのものが少ないという現実があった。臨床的に出会う一見スキゾイド風の患者は実は回避的、対人恐怖的な不安や懸念を持っており、それなりにひとと関わることを望んでいるのであり、それに伴うストレスや恥の感情に悩んでいる人たちが大半であるという理解が生まれた。ちなみにこの問題はDSM-5の作成過程でも実際に米国で問題となっていた。作成にかかわった識者の中には、そもそもその診断がまれであり、DSM-5では削除されるべきとの案もあったという。そして結局それを感情制限型(→スキゾタイパルPD)と引きこもり型(→回避性PD)に解体するアイデアが採用されたというニュアンスがあるという(織部直弥、鬼塚俊明、シゾイドパーソナリティ障害/スキゾイドパーソナリティ DSM-5を読み解く 5 神経認知障害群、パーソナリティ霜害軍、性別違和、パラフィリア障害群、性機能不全群 神庭重信、池田学 編 中山書店 2014 pp171-174
このうち引きこもり型が私が言う回避的タイプに一致していることになる。