2022年10月1日土曜日

神経哲学 neuro-philosophy の教え 2

 この揺らぎの問題がいかに重要かについてはいくつかの脳科学的に重要な所見がある。それは揺らぎの大きさ、それも自己関連付けの情報に対する反応の仕方が、そのまま意識の確かさ、生命さを裏付けているということである。十分に生きている、意識を有しているということは、それ自身が揺らいでいるということである。このことは脳波を考えればわかりやすいことだ。脳波がゆっくりであるということはそれだけ意識レベルが低いということを意味するからだ。
 そしてこのことは、関係性という問題についての一つの指針を示しているということが出来るであろう。サリバンは関与しながらの観察、ということを言った。あるいはウィニコットは母乳児というものは存在せず、それは常に母親と一体となって関係を結んでいるという言い方をした。いわゆる関係論的な見方も同じ路線だ。初めに関係ありき、ということだろうか。
  ところがDMNの考え方は、そのような関係論的なあり方を一部修正するものと言えるかもしれない。それは自我心理学と関係論の両者を加味したあり方を示しているのではないか。言うならば他者がいなくても自己はある。人のあり方は自我心理学的と言えるかもしれない。しかしその自我は実は過去の関係性をすべて記憶に残しているうえでの自我なのであって、いまにも対象と結びつくような準備性を持ったものであるということである。つまり脳は、関係の準備性を備えたシステムなのである。それは関係使用で脳が発達してきたことを考えれば理解できる。

そしてもう一つ、脳はある意味では完全なボトムアップの在り方をしているということである。ただしボトムアップで生み出された心的内容は意識される。それはある印象や驚きという形でのフィードバックをトップダウンで起こすであろう。ということはDMNはボトムアップとトップダウンの相互性を「ひとりで」つまり外部入力なしに行っている。この様に考えるとトップダウン、ボトムアップという考え方自体が不正確である可能性がある。何しろ知覚表象はある意味ではボトムに入力されるということになるからだ。