以上フロイトの至った不安の精神病理学的な考察と現代の脳科学的、精神薬理学的な理論を示したが、その趣旨はほぼ一致した方向性を示していることがお分かりであろう。臨床的にも生物学的に見ても、不安はいわば二層構造を有している。過去に現実の、あるいは想像上の恐怖体験ないしは強烈な不安があり、それを想起したり予期したりすることにともなう、より緩徐な不安がある。これらをフロイトの呼び方に準じてそれぞれT不安とD不安と呼ぶことにしたのだった。そして前者はちょうどそのまま Stahl の恐れ体験 fear experienceに、後者は心配worry に相当するのである。
T不安は恐怖であり、自分がどの様な境遇に晒されるかわからず、また一瞬先も予測することが出来ず、体験に受け身に翻弄される事態である。そこでは自らの精神的、ないしは身体的な存亡が危機に瀕し、あるいはその様に感じる状態であり、まさにフロイトが表現したように、トラウマとしての性質を有すると言えよう。そしてその体験が過ぎ去ると、心はそれが再度起きることを予測し、備えざるを得ない。その時に生じるD不安は、その恐怖体験への心の準備を促し、またそれが不十分であることを知らせる。その意味でD不安は警戒信号としての意味を有するであろう(フロイトの「不安信号説」に相当する)。
さて事態が望ましい方向に進むなら、トラウマ的状況に対する精神的、身体的な準備が進み、あるいはトラウマ的状況そのものが繰り返されることなく時が過ぎ、D不安も軽減していく。トラウマ的状況は対処可能な状況に変わるか、二度と起こりえないことに変わっていく。後者の場合は、そのトラウマの記憶が徐々に薄れていくこと、それが忘却されることと同義であろう。そしてむろんこのような事態は私たち人間にのみ生じることではない。これまで生存競争に生き残ってきた生命体は、多かれ少なかれそのような装置を備え、機能させてトラウマ的な状況に対処するすべを学んだのだろう。
ちなみにここで一つの疑問がわく。心は恐怖体験に対する万全の準備を行うことで、D不安を最終的にゼロにすることが出来るのだろうか。おそらくそれは不可能であろう。なぜならトラウマ的状況は将来どのように形や強度を変えて襲ってくるかは完全に予測できないであろう。そしてそれに自分自身もこれまでと同様にそれに対処できる保証はない。その意味では将来来るべきトラウマ的状況を完全に予測し準備することは不可能であろう。すなわちD不安を完全に解消することはできないと考えるべきであろう。しかし生命体は自らに被る危険を最小にするために、この準備を極力最大にするように努めるであろう。
最近の「自由エネルギー原則」(Friston,2010)が雄弁に述べているように、私達の中枢神経は「予測する装置」でもある。常に予測誤差の最小化 prediction Error Minimization (PEM) に向けられていると言っていい。そしてそれはトラウマ的な状況に対する予測に十分反映されていると考えることが出来る。Friston の言う予測誤差による不快(Holmes, 2020)とは、まさにこのD不安をさしていたと考えることが出来る。
Fristn,KJ (2010) the free energy principle. A unified
brain theory? Nature Reviews Neuroscience, 11.127-138.