2022年9月16日金曜日

不安 推敲の推敲 2

 考察、結論 

 以上フロイトの至った不安の精神病理学的な考察と現代の脳科学的、精神薬理学的な理論を示したが、その趣旨を追っていただければ両者はほぼ一致した方向性を示していることがお分かりであろう。臨床的にも生物学的に見ても、不安は二層構造を有している。過去に現実の、あるいは想像上の恐怖体験ないしは強烈な不安があり、それを再び想起したり予期したりすることからくるより緩徐な不安がある。これらをフロイトの呼び方に準じてそれぞれT不安とD不安と呼ぶことにする。前者は Stahl の恐れ体験 fear experienceであり、後者は心配 worry に相当することは言うまでもない。T不安は恐怖であり、一瞬先も見えず、自分がどの様な境遇に晒されるかわからないで、受け身に圧倒される状態である。ここでは自らの精神的、ないしは身体的な存亡が危機に瀕し、身動きが取れない状態であり、まさにフロイトが表現したように、トラウマとしての性質を有するとも言えよう。そしてその体験が過ぎ去ると、心はそれが再度起きることを予測し、備えざるを得ない。その時に生じるD不安は、その恐怖体験への心の準備を促し、またその強さはまだそれが不十分であることを知らせることになる。その意味でD不安は警戒信号としての意味を有するであろう(フロイトの「不安信号説」に相当する)。しかしそれはやがては逓減されていく。これはそのトラウマの記憶が徐々に薄れていくこと、それが忘却されることと同じことであろう。そしてむろんこれは私たち人間にのみ生じることではない。これまで生存競争に生き残ってきた生命体は、多かれ少なかれそのような装置を備え、機能させてきていると見たほうがいい。

ちなみにここで心は恐怖体験に対する万全の準備を行うことで、D不安を皆無にすることが出来るかという疑問が生じるかもしれない。しかし恐怖体験はそれがどのように形や強度を変えて襲ってくるかは完全に予測できないであろう。その意味では恐怖体験を完全に準備仕切ることでD不安を解消することはできないと考えるべきであろう。しかし生命体は自らに被る危険を最小にするために、この準備を極力最小にするように努めるであろう。
  最近の「自由エネルギー原則」(Karl Friston)が雄弁に述べているように、私達の中枢神経は「予測する装置」でもある。常に予測誤差の最小化 prediction Error Minimization (PEM) に向けられていると言っていい。そしてそれは恐怖体験に対する予測に十分反映されていると考えることが出来る。Friston の言う予測誤差の最小化が人に快を生むという主張は、まさにこのD不安の解消によるものとして理解できよう。

さてD不安を引き起こすファクターとして何が考えられるのだろうか。一つはT不安の大きさである。それが恐怖体験であるほど、その準備には時間と心的労力が必要となる。T不安が大きいほど、が訪れる回数も頻度も増えるであろう。それは心がT不安への心の準備が出来るようになるまでは続くのである。そしてその仕組みそれ自身は適応的と言える。心は常に驚きを嫌う(Friston)からである。