治療機序の多元性について
まず最初に申し上げたいのは、実は私はすでに精神分析そのものに対して義理立てをする必要は何もないということです。私は分析家でありますが、そこで最も大事なことは、というか唯一大事なことは、と私のスーパーバイザーのドクターキューリックに言われましたが、「倫理的ありさえすればいい」。ということです。しかしそれは実は大変なジレンマを生むことになります。それは私が出来るベストのものは精神分析ではない場合に、自分の仕事を封じることになるかもしれないということです。これはとても悩ましいですね。しかし最近ひとつ開き直ったのは、私は母国語としての精神分析を持っていて、それなしでは精神療法を語ることができないと言うことです。それは精神分析の概念を使ってあるべき精神療法について語ることでやはり精神分析家であるということです。でもそれでも少し分析の世界を離れて精神療法一般について考えてみたいと思うようになりました。そこで目を向けたのが、前から気になっていた多元的な精神療法という考え方です。
私の準拠枠は、ドクターギャバ―ド先生のテキストですが、彼はその論文でこう言っています。「現代の精神分析はこれまで経験したことのない多元主義 pluralism に特徴づけられる。(Gabbard, 2002*) 」
「その多元主義は、精神分析における治療的作用 therapeutic action
の議論についてもいえることである。
「作用機序は洞察の獲得にある」という一元論はもはや通用しない(Sandler, Dreher, 1996)」
* Gabbard,
G.O. Westen,
D. (2003). Rethinking therapeutic action.
Int.
J. Psycho-Anal., 84(4):823-841.
どうでしょう? この言いっぷりは。