感情と精神療法、というテーマで書くことになった。何で急にそのテーマで?と聞かれそうだが、これも「執筆依頼」関連である。
私は精神療法のセッションで情緒的なコミュニケーションが欠如しているものはあまり考えられない。記憶のメカニズムを考えてもわかるとおり、記憶内容はそこに情緒が伴うことで扁桃核が刺激され、海馬により深く印象づけられて固定されていく。いかなる体験もそうである。ある深い洞察を得たとしても、そこに情緒が必然的に伴わない限りはそれは記憶にあまり残って行かない。情緒体験以外に記憶に深く残るものとしては、知覚印象である。しかしそれは美しい、醜い、恐ろしい、などの感情を伴うものであって初めて記憶に残ることになる。つまり情緒を結局は動かしているのだ。
もちろん単なるデータとしての記憶もある。私達が年号を記憶するとき、例えば鎌倉幕府の開かれた1192年についてイイクニツクロウなどとゴロで覚えるとき、そこに特に感動はない。音楽の旋律についても言えるだろう。でも意味記憶と違い、治療体験はあくまでもエピソード記憶のはずで、そこにある種の情緒の動きが伴わない限り、それは体験としては残らない。だからフロイトが解釈としてある種の知的な情報を主として考えていたとしたらそれは不十分だったことになる。そこでフロイトは例の「治療の抵抗とならない陽性転移」の存在を治療効果を左右するものとして考えたのである。現代的な意味での治療体験とは、ある種の再体験としての意味と、新しい体験としての両方を含むであろう。
ただしすべての治療体験に情緒が絡むべきかはわからない。自分の辛い体験を誰かにじっと聞いてもらっているという状況を考えよう。それは治療者との情緒的な体験と言えないこともないが、感情的な言葉のやり取りとは違う、ずっと静かなものであろう。