では予測とは何か。それは喪失、痛み、恐怖を仮想的に体験する。いわばそれらを表象として体験して、その痛みの大きさを査定するのである。すなわち不安とは、恐怖を想像して一瞬味わう味見foretaste なのである。ただしこれがただの味見では済まないことがある。それがPTSDなどにより生じるフラッシュバックやパニック発作である。外傷的な出来事がありありと目の前で展開するとき、それはもはや表象的ではないのだ。それは強迫神経症についても言える。そしてこれがCSTCループの病的な過活動ということになる。
というところで止まっていたが、要するにここら辺がこの論文の最終的な着地点と言えるのではないか。
少しまとめてみよう。フロイトの考察が最後に至ったように、人は「外傷状況」、すなわち恐怖のさなかに身を置くというトラウマ的な体験を人生のどこか、おそらくかなり早期に持つ。その時は人は心の準備をしていない。準備の先を越すように現実的な展開が起きるということだ。この後に人はそれに備えるようになる。そして積極的に備えるようになることで人はそれをフロイトの言う「危険状況」にする。ここで関与する不安は二種類。一つは生の体験で、恐怖そのものと言え、もう一つは先取りとしての不安である。そして同様のことは喪についてもいえる。両者は同形なのだ。
さて神経科学的にも同じ形が見られるのだ。そこが面白い。そしてそこで問題とされるのがCSTCループ。ようするに皮質と大脳基底核の間に生じているネットワークである。ではこのループがやっていることは何か。皮質で入力されたものはすぐさま査定に向かい、そこでのベストな行動を決定する。そしてそれを皮質に返す。この動きはおそらく一回限りのものではなく、これを何度もグルグル行って誤差を縮めているのではないか。それは運動にも知覚体験にも言えることだ。そこで何をしているかと言えば、例の Friston のFEPの理論が提唱しているように、常に未来を予測し、予測誤差を最小にするような努力をしているのだ。とすれば不安は人がそのようにして生きていくという営みにとってまさに必須の活動ということになる。不安が起きないというのはおそらく偏桃体の異常ということになる。