2022年8月6日土曜日

不安の精神病理学 再考 4

フロイトの論点その2
  現実的な危険には二つの反応がある。一つは情動的な反応であり、すなわち不安の発生 outbreak of anxiety である。そしてもう一つは防護的な反応である。おなじことは内的な危険についても言える。(ISA p.101)フロイトはこんな言い方もする。「時には現実不安と神経症不安は混じっている。現実不安に対する不安以上の不安は、その分神経症的な不安だ。身体的な寄る辺なさhelplessnessが現実の不安に、精神的な寄る辺なさが神経症的な不安に関連している。」(ISA p.101)
  ここでのフロイトの書き方は曖昧ではあるが、次のように読める。防護的な不安は来るべき危険を知っている場合であり、それへの正当なる備えである。無駄のない、いわば必要な不安、というべきか。ところが備えにしては大きすぎる余分な不安 surplus of anxiety があり、それは神経症的な要素を図らずも表しているのだ。」(ISA,p.101)
  ここで疑問に思うのは、恐れるものの正体を分かっている時の不安は本当の不安なのか、ということである。それはむしろ苦痛の先取りではないか。分かりやすい例で、人前でパフォーマンスをする、例えば舞台で歌を歌う前の不安を考えよう。何度かやったことがあるのでどういう体験かは知っている。でもうまく行かないのではないかと不安になる。この不安はかなり現実的な不安とみていい。その不安は喉の調子を整え、出来るなら大きな食事はとらずに、前の日はしっかり寝る、といった感じでコンディションを整えることに役立つであろう。そのことでその不安はいい感じにコントロールされる。ところがあるパフォーマンスに関しては、それが近付くとなぜかいつも以上に不安が強くなる。心当たりのあることを探すと(……)ということに思い当たった。それが神経症的な部分だ。
  ここまで書いて(……)に入るべきものが案外難しいのだ。一応こんな例を考えた。「その日は大切なお守りを家に置いて来てしまっていたのだ。」あるいは「自分の親がそれを聞きに来ることになっているのだ。」あるいは何も特別の理由がないのに、今日は異様に緊張してしまう。それまではリチュアルのように不安を感じた分だけ準備を万全にしていた。もちろん不安は不快な体験だが、おそらくパフォーマンスを首尾よくなすことによる満足感や充実感で相殺されていたのであろう。とするとそれ以外の「余分の不安」は何か新しいことに直面した際に起きてくるトラウマとしての位置づけと言えないだろうか?(フロイトはトラウマは得体のしれないもの、危険状況はすでに正体を知っているもの、という区別をつけている)
  この様に考えると「余分の不安」は神経症的な不安というよりは未知の要素による不安という風に考えることが出来るのではないか。