2022年8月8日月曜日

不安の精神病理学 再考 5

 もう一度整理しよう。初めて人前で歌を歌う時のことを考える。その時間を待つ間は不安が一杯であろう。何が起きるか見当がつかない。どのような恥をかくかわからない。いざとなったら声が出なくなるかもしれない。全くの未知の領域でのことだからだ。ところが不安に打ち勝って歌を歌い、その回数を重ねるにつれて、それを知っている部分が増えてくる。「いつものようにやればいいんだ。」不安は全体として軽減するだろう。
 しかしそれでも全く未知な部分がないとは言えない。「歌う間際になって突然せき込んでしまったらどうだろう?」 「突然しゃっくりが止まらなくなったら?」 あるいは「歌う直前にパニック発作に陥ったら?」つまり全くすべてを予想しきることが出来ない以上、待ったなしのパフォーマンスには不安が付きまとう。つまり最後まで残る不安はこの「万が一」の事態に備えたもの、あるいはそれに由来するものと言えないだろうか。そしてそれ以外の余分の不安は、常識的には起きないと想定していいことが起きる可能性に由来するという意味では(つまり突然心臓発作に襲われる、突然大地震が襲ってくる、など普段はそれを気にしていたら生活が成り立たないような心配事)現実的な部分とは異なる部分であり、これをフロイトは神経症的な要素だ、というのだ。気に病んでもしょうがないことを気に病む、それでは逆にパフォーマンスが落ちるような不安を神経症的要素というわけだ。これは自分でもそんなことを気にするのはおかしいと思うであろうし、その意味では自我違和的な不安ということになる。この可能性をフロイトがどこまで考えていたかは不明である。少なくともフロイトはこれよりも別のこと、つまり内的なもの、欲動の高まりとしてとらえようとしているのだ。というよりフロイトにとっての神経症とはこのような欲動論的な理論背景を常に持っているのだ。
 さてここまでで書いたことは現実的な不安は適応的でおそらくシグナルとして必要なものであり、神経症的な不安は「症状的」なものである、とまとめることは出来よう。
ところでこれと少し似た議論を私は思い出す。それは喪の作業だ。対象を失うとする。最初は辛いが、通常は徐々に癒えていくものだ。そして対象喪失が未来において起きることが分かった場合は、この喪の作業は実際の対象喪失の前からすでに生じているものだということを私たちは知っている。心の準備というわけだ。
 例えば愛犬に確実に死が迫ってきているとする。私たちの多くは実際に愛犬の寿命が尽きる前に、その準備を始めるだろう。なぜなら一度ではそれを処理しきれないからだ。そしてフロイトが喪において、「喪の先取り」と呼んだ心の働きだ。そしてある程度知っている未来の危険に心が備えるための不安は、この喪の先取りにとてもよく似ているのだ。フロイトはISA論文でこのことに言及しながらその考察を終えなかった。危険の先取りによる不安と、喪失の先取りによる「喪の先取り」。いっそのことこれを将来の苦痛に備える報酬系の反応と一括してしまえば、これは同じことなのではないだろうか?
一つの結論。現実不安と神経症不安の関係は、喪の先取り部分を構成するだろう。そしてそのうち死去の前までに行った心の準備に伴う苦痛の大部分が現実不安に対応する。しかし実際の死去に際して体験された苦痛の部分がそれより小さかったとしたら、自分は一種の「取り越し不安」を体験していたということになる。この部分が神経症不安に相当するということだろうか。