2022年7月19日火曜日

不安の精神病理学 再考 7

  ところで不安について考える際にもう一つ考慮に入れたいのが、自己イメージの問題、あるいはそれに関連した超自我の問題と不安との関係である。私は不安とはカタストロフィーに対する恐れが関係しているという言い方をした。しかし超自我的な不安はそれとも違っていて、不思議な形を取りうる。例えば人を殺めて逃げおおせていた犯人が、時効を前にして警察に自首するという例を考える。私は恐らくこの手の人間だと思うが、出頭しないことの方が胸がざわつき、出頭して収監されるとホッとするはずだ。もちろん獄に繋がれるのは嫌だが、それでも安心するはずだ。いったいこれは何だろう? 

もちろん死刑が待っているとすれば、そちらの不安が、逃げおおせている時のそれと入れ替わることになるのだが、それにしても処罰されることで不安が解消するのはどうしてか。そこにはある種の自己イメージが関係しているに違いない。「人殺しがオレの商売だ!」と豪語する人は例外であろうが、私たちのほとんどは「人を殺めて処罰から逃れている自分」に耐えられないだろう。すると自分の行動がそれに見合っていないことが耐えがたい不安を生む。

日本のスーパーやドラッグストアなど、店頭に品物を山積みにしている。おそらく外国では考えられないことであろうが、万引きする機会がいかに多くても、私たちのほとんどがそれをしないのもおなじ理由ではないだろうか。人殺しなどという物騒な例でなくてもいい。私達が道端に落ちていた財布を拾って中身だけ抜き取って立ち去る、ということをしないとすれば、もし絶対に人に見られていないという確証があっても、「お天道様が見ている」(つまりは自分の超自我が見ている)のである。

あるいはちょっと高価なものを買う時の抵抗などどうだろう?書籍で3000円を超えるものは私はよほど必要なものでない限りは買わないことにしている(書いていて我ながら情けない)。それは「こんな風に高価な本を気軽に買っていくようになったら貯金を使い果たしてしまう」「こうやって金遣いが荒くなり、堕落してしまうのではないか(これも我ながら大袈裟だ!)」と思うからだ。だからそれが一回限りの、どうしても必要な経費であるならば、あまり気兼ねなく買うことが出来る。自堕落になることの恐れ、人を傷つけて平気な人間であることの恐れ・・・・。これ等は自分が持っている自己イメージが保てなくなることへの恐れということになるだろうか。