また注文が入ってしまった。「不安の精神病理学再考」という依頼論文。こうこれ以上は無理、これで最後、ということでいちおうはお引き受けした。しかし不安だけでも大変なのに、それを「再考」など大それたことができるのだろうか? これははっきり言ってむちゃブリではないか、と思いつつ何かを考え始めている。私が今回底本とするのは「DSM-5を読み解く 4 不安症群、強迫症及び関連症群(神庭重信、三村将総編集 中山書店」の一章「診断と概念の変遷(塩入俊樹著)」である。とにかく不安症群が再考を迫られるようになっているのは、不安症群に対するある種の格下げが起きているからだ。一昔前なら、神経症=不安症 という見方があった。要するに神経症とは不安の病という観念は、フロイト以来あったのである。フロイトの言ったことが何もかも正しい、というわけではないが、彼の定式化はやはり長い間準拠枠になっていたのである。
ともかくもこれまではいわゆる神経症群≒不安症群にあらゆるものが入っていたが、DSM-5(2013)に強迫神経症、PTSD,急性ストレス障害が不安性障害から「旅立って」いったのだ(塩入、p.2 中山書店 2014)ただしそれだけでは不安性障害はパニック障害、全般性不安障害、社交不安障害くらいだけになってしまうので、外部から補強がなされた。それが分離不安障害と場面緘黙だったのである。うん、ここまでは少しわかりやすくかけた。
ちなみにフロイトは不安を、外界の危険を適切に処理できない時に誰もが抱く現実不安(正常不安)と、精神内界に生じた興奮を鎮めることが出来ない時に病的に生じる神経症不安の二つに分けた。これは彼独特のリビドー論に裏打ちされたものだが一定の支持を得、神経症概念の一つとして重視されていた。