2022年7月22日金曜日

不安の精神病理学 再考 9

  この様に考えると不安は、安心感、安堵感との関係において論じられなくてはならないことにある。不安の種になっている事柄を解決することで、不安は安堵感に置き換えられる。これもまた私たちが望んでいることである。私たちの多くが人生の中で求めているのは、快楽であると同時に安堵である。というよりは安堵は快楽に変換される?
 一つ例を考えよう。夏休みになった。毎日遊んで楽しく過ごそうと思う。しかしふと不安の影がよぎる。あるレポートを提出しなくてはならない。それも私が大嫌いな統計学のレポートだ。しかもそれは必ず出さないと進学できない。でもそれを書くことには全く興味がない。一種の苦行である。そこで私は不安に駆られる。ひょっとしてこのレポートを自分は出せないのではないか。「そんな馬鹿な!」と思う。しかしこのレポート作成に取り掛かる気力やモティベーションを全く感じないのだ。これは不安材料以外の何物でもない。そこで考えた。レポートはだいたいA4で5枚くらい書く必要がある。いちにち10行書いたら、20日で終わることになる。幸いレポートの質を問われることはあまりない。しっかり夏休みの間にも勉強するように、という意図で出された課題だ。そこでとりあえず必死の思いで10行だけ書いてみる。やった。出来るではないか。これで全体の20分の一は終わったことになる。こうしてあなたの不安は以前より5%減って、95%になった。

あなたは安堵するだろうか。おそらく。ほんの少しの安堵ではあるが、ないよりはましだ。不安の一部は安堵に代わった。それは将来の苦痛を先取りした結果である。夏休みが終わる直前に死ぬ思いをして統計のレポートを書くことの苦しみを100とするならば、それは95に減ったからだ・・・・

さてこの安堵は、純粋な快とは異なるのだろうか。純粋な快として、例えばタバコやビールや、美味しいケーキを味わった時のことを想像しよう(私には最後の一つのみ該当)。もしあなたが本当にこのレポートのことで悩んで不安に思っているとしたら、それは恐らくこれらの嗜好品による快楽とあまり変わらないだろう。そしてあなたはその10行を書いている時、まったくの苦行ではなく、ある種のモティベーションさえ持っているかもしれない。これを書いたら少し不安から解放される、と思うことは、純粋の快とあまり違わないのかもしれない。

この様に考えると不安は私たち生物が、特に未来を予測することのできる人間がその報酬系に備えた極めて重要な信号であるとも言えるだろう。健全な不安、とでもいうべきであろうか。そしてその声に従って生活することで、人生はよりよく生きることが出来るようになるのだ。