いよいよこの不安についての考察は行き詰ってきた。「不安≒カタストロフィーの予期」という私の説は果たして妥当なのか。というよりはそれほど哲学的、認識論的な問題だろうか。自堕落な自分って、そんなにカタストロフィックなのだろうか? それにデパス0.5㎎で半ば消えてしまう不安とは、そんな大げさなものと関係しているのだろうか。もっと単純に、「苦痛の予期」程度でもいいのではないか。例えば一日中フリーの休日と、夜に仕事が入っている休日を比べる。後者は明らかに不安を感じさせる。もちろんその程度はごく軽いものかもしれない。でも不安は不安なのだ。しかしこの不安はうまい具合に私の生活をガイドしてくれるというのも確かだ。夕方何かがある。その準備をしていないからこの不安はそれを知らせてくれているのだ、と考えて必要な準備を整える。すると不安はある種の苦痛を準備するための道具であるという気もする。それは「喪の先取り」ともいえるものだろう。そこでフロイトの有名な言葉.美を台無しにしてしまうのは、喪に対する反逆なのだ。この美がすべて儚いものであるという思いは、喪の先取りforetaste of mourning を与えてしまうから。(Freud(2017)On Transience, p.309)
不安とはフロイトの言う「喪の先取り」である、ということか。また新しい進展である。またフロイトに戻ったぞ。