2022年7月23日土曜日

不安の精神病理学 再考 10

 ちなみに不安と予期との関係を考えていくと、まさにOCDobsessive compulsive disorder がそれだ。日本語ではまとめて「強迫性障害」となり、obsession 強迫思考と、compulsion)強迫行為を区別できないが、前者はヤバい思考であり、それを搔き消すために後者が行われるという仕組みである。鍵をかけていないかも知れない、という強迫思考 obsession が生じ、鍵をチェックするという行為 compulsion によりそれが(一時的にではあれ)解消する。その繰り返しである。「鍵がまだかかっていないのではないか」、という考えがなぜ不安なのだろうか? おそらくそこに合理的な説明は何もない。しかし「どうして鍵をかけていないことが不安なのですか?」と問うと、当人からは大袈裟ながら全く否定することもできない答えが返ってくるだろう。「外出して不在の間に誰かが押し入って金品を奪って逃げてしまいます」という答えである。思考は簡単に魔術的になり得るから、そこにいかなる一見荒唐無稽な考えも入り込む余地がある。何も不安がないような生活を送っていても、「いつ巨大地震が起きるかわかりません。それが不安です。」と言う人の非合理性は完全には否定し去ることはできない。たしかにその通りだからだ。とすると私たちはその種のカタストロフィーについて考えることを中止できているのかもしれない。あらゆるリスクを考えると、不安で生きていられないからだ。

あるSを患った患者さんが不安を訴えるので、例えば何が不安かを尋ねると、自分が膝の上に置いている革の鞄をさして、「たとえばいつこの鞄が突然ぶっ壊れるかわかりません」とおっしゃった。これも全く否定し去ることはできないが、どうせ壊れて困るのなら、自分の健康状態や病院の行き帰りに使う公共交通機関の方だろう。不安の先を手っ取り早く目の前に定位させたというこの患者さんは、そもそも不安が浮動性のものであり、それはかなり恣意的に何らかのカタストロフィーに容易に結びつけることが出来るという事実をさす。つまり不安はそれが先立つこともこのようにあるというわけだ。

昔勤務先の大学の学長が、会議の最中に大動脈解離で急死された。大動脈のいくつかの筋肉の層の一部が突然一気にはがれて心停止に至る、ということが起きたわけだが、この瞬間にも自分の大動脈がちゃんと剥がれないことが奇跡に思えてしまう。昨日は健康的な不安、という感じで書いたが、この種の浮動性の不安は、まさに病理と言えるのではないだろうか。