2022年7月29日金曜日

不安の精神病理学 再考 14

  Nersessian 先生の論文で批判されている、フロイトの快-不快原則について考えて見るというテーマが残っていた。先生はフロイトがアイサ論文で言っているもう一つの点にも異議を唱える。それは不安もまた欲動の上昇に関わっているという説だ。不安は欲動が少し上昇することで、それを信号として知らせてくれる、というのだ。(しかしそれでは鬱積不安説と変わらないことになるが…)そしてその根拠としてフロイトが用いている快-不快原則が、先生にはお気に召さないという。それはそもそもフロイトの欲動の上昇=不快、その解消=快 という図式が問題だという。それはもちろん言うまでもない。今の世の中に(少なくとも心の専門家なら)これを信じている人はあまりいないのではないか。脳科学的な知見を得た私達なら、快も不快も側坐核におけるドーパミン系のニューロン、アセチルコリン系のニューロンの興奮の比率により決定される(らしい)ことを知っている。そうして不安はフロイトが考えているよりもっと複雑で込み入ったものだという主張をしているのである。
 ここで私見を述べるならば、不安には明らかに健康を害するものと、適応を促進するためのもの、ないしは防衛として用いられるものがあるといえる。不健康な不安とは言うまでもなく、パニックのように襲ってくるものである。それは「将来の何に備えなくてはならないか」を全く教えてくれない。ただの空砲なのだ。これは不安の暴発と言えるものであるが、より緩徐で穏やかな不安はさまざまな意味で快原則にかなっている。これまで出した例では、不安になるからこそ統計のレポートを作成できる。不安になるから自分が進みかけている方向の行きつく先を顧みることが出来る。それに不安は将来の不快又は喪失に対する喪の先取りforetaste of mourning を可能にしてくれるのだ。超自我的な不安とフロイトが考えたものの多くはこのような意味を持つ。リボ払いのカードを使って買い物をするときに、不安になることは重要なのだ。不安の信号を送るものを回避することで私達はより安定した生活を送ることが出来る。
 この様に考えると不安障害は、不安サーキット(とさっそく名付けてしまった。要するに快-不快原則が正しく機能するために備わっている神経回路のことだ)が暴走する事態と考えることが出来る。
  この論文もようやく着地点が見えてきそうな気がする。