ネットで拾った格好の論文を読んでみる。フロイトの不安概念について批判したものだ。
Edward Nersessian, MD Psychoanalytic Theory of Anxiety; Proposals for a Reconsideration(精神分析における不安の理論:その再考に向けた提案)
Nersessian, E (2013) Psychoanalytic Theory
of Anxiety; Proposals for a Reconsideration. In eds: Samuel
Arbiser, Jorge Schneider. On Freud's, "Inhibitions, Symptoms and
Anxiety". Karnac Books.
これはフロイトの不安理論を再考しようという趣旨の論文だ。
フロイトが最初に関心を持ったのは、カタルシス効果である。これは彼の原体験の様なものだったかもしれない。何しろ過去を思い出して感情を爆発させた患者さんの感情を表出すると症状が軽快するという現象を見て本当にすごいと思ったのだ。もちろんそのようなケースは数少ないのであろうが、彼はそれをプロトタイプにすると決めたわけである。過度の一般化である。そしてフロイトは欲動と感情は等価だと思った。貯留した欲動が感情となって吐き出されることが治療である、というゆるぎない信念が生まれた。しかしここで彼は感情と思考をどのように結びつけるかについても思案した。何しろ患者は記憶の痕跡を思い起こすのだ。そして思考は記憶痕跡の備給されたものであるのに対して、感情は発散discharge によるものだという。そして記憶を言葉にすることが治療になると考えたのであろう。「人間は思い出す代わりに反復する」わけであるが、彼にとっての思いだす、とは言葉にするという意味があったことを忘れてはならない。
(Nersessian:The whole difference arises from the fact that ideas are
cathexis ultimately of memory traces, whilst affects and emotions correspond to
processes of discharge, the final expression of which is perceived feeling.)
それからNersessianは、フロイトの快-不快の問題についての批判を展開する。両者は互いについの関係にあるのではなく、それぞれが独立に存在し、混じりあうということを現代の脳科学は示しているという。ここの点は複雑なので後に取っておこう。というのも私は不安を論じる際に快と不快の問題は切り離せないと考えているからだ。数日前に書いたとおり、不安は将来の不快を少しずつ切り崩していくという意味を持っているからだ。
Nersessian先生はフロイトがアイサ論文で不安はシグナルだと言っている事にも疑問符を突き付ける。フロイトはこれを外的な危険と内的な危険に対するシグナルだといった。特に内的な脅威が性的な欲動や攻撃性だと考えたことについて、「いやいや、不安だから攻撃性が発動されるんでしょう」とも言っている。いずれにせよフロイトの「内的な脅威=欲動の高まり」は事実上破綻しているのだから、先生の言うことはもっともだというしかない。
Nersessian 先生は次に、恐れと不安を区別することは実は難しい、とこれもまっとうなことをおっしゃる。両方ともApprehension(「 気がかり」と訳しておこう)に関係し、不安はより長期的な気がかりであり、恐怖とは短期的な気がかりであるという。そしてこれは外的であろうと内的であろうと働く。(ただしNersessian 先生は「内的」を「ファンタジー」と言い直している。これだと理屈にかなう。想像する危険も、実際の危険も同じように不安を呼び起こすというわけだ。
最後の部分でNersessianは結構重要なテーマにも言及する。それはアイサ論文でフロイトが述べた超自我不安とは、懲罰の恐れだけではなく、共感に由来するものもあると言っているのだ。つまり人を傷つけるのではないかという不安は、そのことにより懲罰を受けることに由来するのではないということだ。