ただし平和共存には問題がある
ところで統合を目指さないという立場は、平和共存を目指すことを意味するとしても、それですべての人格が満足するような解決に至るという保証はない。誰かが「犠牲」になるということも十分あり得るのである。例として次のようなものを考えよう。
主人格AさんにはBさん、Cさんという交代人格がいて、AさんとBさんは日常生活の多くを分け持っているとする。二人は異性同志であり、またCさんは黒幕的な存在であり、AさんとBさんで比較的平穏に日常生活を回している際に、時として侵入して事件を起こす傾向にある。Aさん、BさんにとってはCさんはできれば出てきてほしくない、あるいはいなくなって欲しい存在である可能性がある。そして普段は奥で眠っていることの多いCさんと人生を共有する機会を少なくとも歓迎はしていないかも知れない。
このようにA,Bさんが日常生活の大部分を営み、他方がCさんが眠りにつき、滅多なことでは目覚めないという状況が成立することは、治療の進展なのであろうか?
これは難しい問題ではあるが、一つの達成とは言えるかもしれない。私のよく知る方は、Cさんに相当する人格の状態で罪を犯し、そのために裁判を経験し、それをきっかけにCさんはかなり鳴りを潜めることになった。その結果として主人格Aさんと交代人格Bさんの生活はより平和になったのである。
この方の場合は常識的にはこの事態は好ましいことといえるだろうが、それがA、B、C、D・・・・さんたちにとって最終的に望ましい形なのであろうか?その答えは決して容易ではないのである。
ある別のケースを考えよう。その人の場合A、Bの人格は出る機会を均等に保っていた。それぞれが週に二日ずつ別々のアルバイトをしていたが、ある時からBさんが職場での人間関係のせいであまり仕事に行けなくなり、その分休眠することが増え、他方では仕事の順調なAさんはかなりの時間出ているようになった。このように人格間に「格差」が生まれると平和共存とは言えない状況が生まれる。このケースでは私はBさんから「自分はAのために消えるべきなのだろうか?」という相談を受け、すぐには答えられず、いろいろ考えさせられた。
Bさんが休眠に入ることでAさんの人生がより豊かになるというのは最終目標なのだろうか? これは決して一つの正解のない問題である。そしてここにはBさんが自主的に休眠を選んだのか、それともそれを余儀なくされて仕方なくそれに応じたのか、ということでも大きく判断が異なるようになる。
ちなみにこのように考える際、私が少なくとも「統合」の道筋を選んでいないことにお気づきであろう。A、B,Cさんがそれぞれ明確なパーソナリティ構造を有し、それぞれが本来なら自分の人生を100パーセント生きようとしているなら、それらが統合された状態はどのように想像できるだろうか? 私にはそれが分からない。「統合」されたAさんはBさんCさんの性格を併せ持ち、記憶も共有するということなのだろうか? その場合Cさんの攻撃性や凶暴性はどうなるのだろうか? それはAさんBさんによって昇華されることになるのだろうか?