2022年5月17日火曜日

他者性の問題 100 心はそもそも一つである

 心とはそもそも一つである

 そこで冒頭ですでに述べた点について論じることになる。そもそも心とは一つではないだろうか?そもそも私たちが何かを体験するとは、一つの心が体験しているのではないか?

私が決まって出す例をここでも出す。目の前に赤いバラがある。「あ、バラだ、きれいだな」という体験を持つ。いわゆるクオリアとはそのようなものだ。クオリアとは、ラテン語 qualiaで、私達が意識的に主観的に感じたり経験したりする「質」のことを指す。この様な体験をするとき、私の心は一つである。つまり同時に他のことは考えないのだ。ところがこのような主張はすぐさま反論に遭う。よくアンビバレンスという言い方がある。両価性、ともいう。一つの心があるものに対してしばしば正反対の感情反応や価値判断を下すことをいう。例えば先ほどのバラの例であれば、心のどこかで「毒々しい色のバラだな」という反応も起こしている可能性がある。思うとしても、その瞬間には一つの心がそう思っているのだ。あるいは臨床場面では誰かに対して愛と憎しみの感情を持つという例が挙げられるだろう。


しかしクオリアを提唱する人は次のように言うだろう。「心は一度に一つの体験しかできません。『きれいなバラだ』は『毒々しい色のバラだな』と混じって体験されることなく、前者と後者は異なる瞬間にそれぞれ純粋に体験されるのです。だからそれぞれが独立して心に残るのでしょう。」私はこの主張に原則として同意する。

私がこの問題を考える時に参考にするのが、ルビンの壺やネッカーの立方体の議論である。ルビンの壺は絵の図を見るか地を見るかによって全く異なるものを見ることにある。ここに示した例では、サキソフォーンを吹いている男性と女性の顔のイメージは、決して同時には見ることが出来ない。というのも両者は全く別々のクオリアを持つのであり、両者が混ざったものを体験することはできないのだ。