2022年5月14日土曜日

他者性の問題 98

 統合が最終目標か?

このようにDIDにおいて出会う交代人格のそれぞれを人として尊重しつつ会うという姿勢は、治療論にどのように反映されるべきなのだろうか。そこで検証されなくてはならないのが、DIDの治療として統合を目指すという姿勢である。といっても統合を目指すという方向性とは異なる治療を考えなくてはならないというのが私の主張となる。

解離の治療には様々なものが考えられるが、おおむね統合を目指すという立場が依然として優勢なように思われる。それはF.Putnam R.Kluft  といった解離のエキスパートたちによって掲げられて以来、いわば既定路線として受け継がれ、今でも多くの臨床家が治療の最終的な目標として考えているようである。第●●章でも示したように、司法の立場からは、精神科医の文献を引用し、「治療的な観点では、通常は人格の統合を最終ゴールとしていることを考えれば・・・」とされ、あたかもそれが精神科医が一致して持つ見解というニュアンスで受け止められているようである(安藤久美子「解離性障害」五十嵐禎人・岡野幸之編「刑事精神鑑定ハンドブック」(2019・中山書店)197ページ 」)。そしてこの統合を目雑治療方針は、交代人格を部分として捉える傾向と表裏一体であった。部分としての人格が「人格未満」であるとしたら、それらが合体することで初めて一つの人格になる、と考えることは極めて当然と言える。しかしそれでも解離の研究は新しい時代を迎えつつある。私の理解では人格の統合は必ずしもそれを目指さないというのが現代的な臨床家の立場である。(Howell, ISSTD
 ところで私自身が臨床的事実として受け入れていることがある。それは多くの交代人格さんが、統合することイコール自分が消されることと感じているということだ。その結果として統合を目指す治療は受けないという姿勢になりがちである。逆に「私は主人格やほかの人格と統合されたい」という交代人格さんの話は聞いたことはない。
 ただしこのことは、統合されたいという願望を持っている交代人格さんが存在しないという証左にはならないだろう。それに中には「主人格や基本人格がそれを望むのであれば、それに従う」という立場の交代人格さんもいらっしゃるであろう。またおそらく「統合される」という意味合いをどのように交代人格さんが受け取っているのかということによっても事情は異なるであろう。
 例えば「明日自分は死ぬ」、という体験と、「明日自分は果てしない眠りにつく」という体験、あるいは「明日自分は誰かに生まれ変わる(ただし生まれ変わった自分は今の自分を覚えていない)」という体験はそれぞれ現象としてはほぼ同一だが、いかにそれに不安を覚えるかは人によって異なるだろう。

同じように交代人格が統合してからも蔭で見守ることが出来ると考えている場合には、あるいはそれこそ「部分」として生き残ると思っている限りは、統合されるということはそれほど恐ろしい響きを持たないかもしれない。

さらには交代人格が統合を恐れる傾向があるからと言って、統合を避けるべきだということには必ずしもならない。治療とは自分の身に何か新しいことが起きることを多くの場合意味する。すると今までの自分ではいられなくなってしまうことの恐怖や不安は必然的に生じるであろう。