「部分としての心」は存在するのか?
本書で取り上げている交代人格の人格としての在り方という問題意識は、実はそれより一段階上のレベルの問題と関連している。それはそもそも心というものとは部分でありうるか、という問題だ。つまりこれは交代人格に限らない心の在り方を問い、それが基本的に部分ではありえない存在であり、統一体としての要件を備えているはずであることを示したいのである。すなわち心とはすなわち部分ではありえないという事を示すことで、交代人格も当然ながらその例外ではないから、部分ではありえないという論法を取ろうと考えているのである。だから本章の記述は交代人格よりは人格一般、心一般をテーマとしていることを最初にお断りしたい。
ただしこのような文脈で論じる際の心とはそもそも何か、ということがさっそく問題にされなくてはならないだろう。しかし私はそれを哲学的に論じるつもりはない。心とは私たちが対話や一緒に物事を体験することを通して感じられるもの、私たちが友人や先生や家族と一緒に過ごし、その考えや行動に触れて、「この人には私と同じような心があるのだな」と感じられるようなものを指す。
さてこのように考える心は、それがそこに存在するかが疑わしい場合もある。いつも接している成人した家族なら、間違いなくそこに心が存在すると確信できるだろう。しかし物心のつく前の、例えば生後数か月の乳児ならどうだろう? 両親や兄弟を認識して、笑いかけたら笑顔でこたえるのなら心はそこにしっかりあると認めてもいいだろう。しかし生まれて間もない、まだ周囲の物事をほとんど認識できないような状態でも心と呼ぶのだろうか? 子供の顔も認識できないほどに認知症が進行している御老人ならどうだろう?交通外傷で頭部を損傷し、あるいは麻酔がかかる途上で意識が薄れかけた人の心はどうだろう? あるいはご主人の気持ちをとてもよく読み取って反応するペットのワンちゃんならどうだろう? カエルや昆虫や植物は? 様々に開発されているAIロボットは無理だろうか? 地球全体を一つの生命体とみなすガイア仮説に従って地球そのものに心を見出すことはできるのだろうか? このように考えると私たちにとって当たり前のように考えられる心には、その存在が疑わしい例がいくらでも出てくることが分かる。しかし私が本書で論じているDIDの交代人格については、その多くが普通に話すことが出来そこに心を見出すことに何ら不自然さや困難が伴わない。交代人格さんの心は認知症や飲酒で意識の朦朧した人たちの心に比べてはるかに生命で、一般人と変わりない心であることが普通なのだ。そのうえでそれらの心を部分として、人間以下の心として扱うことの是非を私は問いたいのである。