さて私はこのお話を退官講演という形で行って来ましたが、オンラインの形式なので、おそらく質問という形で皆様の考えをお伝えいただけないかと思っていました。私は講演は参加者とのやり取りで意味を持つと考えるので、それは残念なことだと思っていました。しかし幸い、昨晩夢の中で私はいくつかの質問を「他者」からいただいたのです。そこでそれらについてお答えしたいと思います。
質問 ① 岡野先生は他者と出会え、人の他者性を認めよ、とおっしゃいますが、本当にそんなことができるとお考えですか? 他者は見えないという風におっしゃったじゃないですか?
岡野:とってもいい質問です。痛いところを突かれました。というのも私の今日の話は少し極端なところがあるからです。他人を他者として尊重せよ、と言っても、私たちは純粋な他者を透明人間としてすら見ることはできないはずです。カントの物自体だって、触ったら質感はあるし、何らかの姿をもって目に映るでしょう。つまり私たちは物事を対象化することによってしか把握できないのです。だいいち、他者を認めて共感するためには「ああ、この人はこんな人なんだな」と思えなくてはなりませんが、それはすでに内的対象像を作り上げていることになります。ということは他者体験とは、他者としてみなす、という部分と対象化する、つまりそのイメージを勝手に描く、という部分の両方を必ず持っているということになります。そうでないと体験自体が成立しません。わが子は可愛い○○ちゃんのままであると同時に、その分からなさに敬意を払うべき他者であるという部分を必ず両方含むのです。ということはそれがどちらか極端に偏ることが問題なのでしょう。他者性が極端になるとそれは見知らぬ不気味な人たちに満ちた、精神病の状態に近いかもしれません。あるいは他者のことが見えない時に私たちはたいてい被害妄想的になります。