そしてこの疾病利得の問題はヒステリーについても言え、それが女性が自らの苦しさをアピールしたり、自らの性的な欲求を表しているのではないかと考えられたのである。つまり解離性障害を有する人々は「病気でもないのに病気のフリをしている」とみなされる傾向にあった。いう見方がなされたのだ。そして Charcot や Freud が貢献したのは、それまで医学の対象にすらならなかったヒステリー、すなわち解離性障害を医学の俎上に載せたことにあった。これはヒステリーに対する差別意識が軽減ないし解消される一つの大きな流れだったのである。しかしそれがいったん病気として認められると、今度は障碍者として差別されることに繋がることはすでに述べたとおりである。この様に解離性障害は、障害として扱われないことについても、あるいは障害として扱われ過ぎることについても、差別の対象とされてきたと言っていいだろうか。
最後に提唱する「程よい」解離性障害のとらえ方
本章の、あるいは本書のまとめとして以下のことを述べておきたい。解離という機制(心の働き)は人の心に多かれ少なかれ備わっている。しかしそれを用いやすい傾向にある人々が存在し、特に幼少時のトラウマ的なストレスに遭遇した場合により顕著な解離体験を有することになる。そしてそれを障害ないし疾患としてとらえるか否かは、まさにそれが日常生活に支障をきたしているかにより判断されるべきことなのである。すなわちそれは必要以上に病気としての側面を強調されることでも、それを過小評価されるべきものでもないのだ。
これはいわば解離をスペクトラムとしてとらえるという事であるが、この捉え方はいわゆる神経症症状や、神経症傾向におおむね当てはまることである。例えば人前で多少なりとも緊張するのは普通のことであり、「対人緊張」という精神科のタームも存在する。そしてそれは軽度でふつうの人にしばしば体験されるものから、病的対人恐怖と呼ばれ、人前に姿を現すこと自体が忌避すべきことになり、社会生活が送れなくなるものまである。解離もそのようなものなのだ。そしてその際重要となるのが、人を障碍者か゚健常者かといった二者択一的なものの見方をいかに控えるかなのである。人の心は、自分の心も含めてつかみようがない。ある程度はつかめたように見えても、その細部を知ろうとすると一挙に混とんとして行く。他者とは、他者性とはそのようなものなのだ。解離性障害はその他者性の特徴をある意味で顕著な形で私達に示してくれているのである。