結論 最近のDIDをめぐる動きをどのようにとらえるか
以上二章にわたって司法領域における解離性障害、特にDIDについて論じた。その全体をまとめてみよう。まず司法では責任能力という概念が極めて重要になる。それは被告人をどの程度罰するかという判決を下すために重要な概念である。医学では対象者(患者)がどの様な病気に、どの程度苦しんでいるかが問題とされる。しかし司法ではその人がどの程度「罪深いか」が問題となる。つまり司法では医学とは違い、患者に対して全く異なる視点からその処遇を検討するわけであるが、私はこの問題にも他者性のテーマが絡んで来ることになる。端的に言えば、DIDにおいては、自分ではなく、他者がその罪を犯したと考えられる場合があるからだ。例えばAさん自身には罪を犯す意図はないにもかかわらず、他者としての交代人格Cさんが違法行為を行うという事態が生じているのである。私はこのような事態をプロトタイプとして言い表すことが出来るとした。この場合、精神医学の立場からAを処罰するべきかどうかを結論付けることはできない。そもそも医学とは患者の病を扱うことであり、「罪深さ」ではない。ただ実際にどのような扱いがなされているかとは別にこの問題を精神科医として考えるならば、実に難しい問題であることがわかる。
少なくとも私の見解ではシャム双生児状態と考えられる。シャム双生児は二人の人間が一つの体を有している状態である。二人をA、Cとするならば、お互いに片割れが犯してしまった罪を一緒に償うべきかは答えの出ない問題であろう。つまり罪を償おうにも、それは罪を犯していない方にも同じような苦痛を要求することになり、それはフェアではないからだ。しかし同じような罪が起きないようにするためには二人とも無罪放免とするわけにはいかないからだ。
ちなみに他者性とは少し異なる議論だからだ。他者は同居しているのである。もしAさんがジキルとハイドであったらどうか。他者性は確かである。しかし同居している以上、どうしても連帯責任がかかってくる。そこで私の説は、獄中での治療を、という事なのだ。
さて私は次に実際の司法領域でのDIDの扱いについて考察した。まず司法領域ではDIDについて三つの考え方を示しているとされる。それらが
① DIDの診断があれば常に責任無能力とする立場。
② 当該の違法な行為を主人格が弁識・制御できたら責任能力を認める立場(グローバルアプローチ)。
⓷ 当該の違法な行為を行った人格が弁識・制御できたら責任能力を認める立場(個別人格アプローチ)。
そして交代人格を他者とみなすという事は、少なくともグローバルアプローチと一致することであることを示した。
そして司法においてDIDの処遇には歴史的な変遷があることも述べた。
1.裁判所がDIDを無視していた時期。
2.裁判所がDIDを認めて、かつ責任能力を認めた時期。
3.DIDが認められて、責任能力が一部低下しているか、あるいは猶予を認められた時期。
この変遷の全体が、個別説からグローバル説へのシフトを意味していることは興味深い。
ところでこの裁判所の見解の変遷は、精神医学的な立場の影響を多分に受けていることが興味深くもややこしい。緒方や上原は精神医学が連続仮説を提唱しているということや、統合が目的であるとしているという。