解離性障害の場合はどうか?
さて同様の議論は解離性障害についても当てはまると私は考える。解離はその定義を広くとるならば、意外と日常生活で体験されているものなのだ。以下に前々書(岡野、解離性障害 岩崎学術出版社、2007年)で紹介したColin
Ross (1997) の表を再び示そう。
心理的な(機能性の)解離と生物学的な(器質性の)解離(C.Ross, 1997)
健常な生物学的解離 (夜間にトイレに行ったことを忘れること) |
病的な生物学的解離 (脳震盪の後の健忘) |
健常な心理的解離 (退屈な講義の間に見る白日夢) |
病的な心理的解離 (近親姦に関する健忘) |
Ross,
この表に示されたとおり、健常な解離は夜中に短時間覚醒した際、あるいは日中覚醒時にボーっと夢想にふけるようなときにも生じていると考えられて来たのだ。
私がよく例に引く芸能人のことを書いてみよう。ある芸人さんが、昔ガキ大将の時に、仲間と悪さをしていて先生につかまり、一列に並ばされたときのことを語っていた。先生は彼らに片端からビンタを食らわせたわけだが、その後の大物芸人になる少年は、自分の番が近付くと、魂だけ後ろに下がって、自分の体がビンタをされているのを他人事のように見ていたという。一種の幽体離脱体験だが、当然痛みも感じていなかったという。また別の患者さんは小さいころから、危機的状況では「瓶のようなものに逃げ込んで蓋をしてしまった」という。するとその間「誰か」が外に出てその状況に対応するのだと説明なさった。まさに「穴があったら入りたい」を地で行っていたことになる。
このような体験を聞くと、私たちの一部はある種の危機状況でこの解離を用い、心と体を分離することでやり過ごす能力を持っているようである。これは動物の擬死反応になぞらえることが出来るであろうが、この種の反射は昆虫レベルですでに見られている。このことから解離が生命体にとってある種の適応的な役割を果たしてきたことがうかがえる。
このことから解離は一つの能力であり、防衛機制であるという考えが成り立つ。もちろん解離・転換症状は時には人の機能を奪い、適応性を逆に低下させるわけであるが、それは解離性の反応の結果がネガティブな影響を及ぼす場合のみを拾っている可能性がある。