他者性の神経学的基盤
心とは神経ネットワークである
本章では本書でテーマとなっている「他者性」にどのような生物学的な裏付けがあるのか、そしてDIDにおいて交代人格が成立する際にそれがどの様な実態をともなっているかについて考える。ただしそれは大変難しいテーマでもある。心とは何か、それが脳の組織とどのように関係しているかは、様々な仮説は存在していても、基本的には極めて困難な、David
Chalmers のいう「難問 hard problem 」である。その上にその心が複数存在する際のモデルを考えるとなると、これは不可能に近い。だから本章の内容はあくまでも仮説であり、私の想像の産物であることをお断りしたい。ちなみに現在の医学関係の学術論文はそのほとんどが「量的研究」と呼ばれるものであり、そこでの科学的なデータが極めて重要な意味を持つ。いわゆるエビデンス・ベイスト・メディシン(EBM)という考え方である。その立場からは心についての脳科学的な基盤について仮説を設けてもその学問的な価値はあまり与えられない。しかしある種のモデルを心に描いて臨床に臨むのとそうでないのとでは大きな差が生まれる。私がこれから示す考えも、それを設けることで臨床で出会う現象がよりよく説明されるようなモデルを追求した結果である。
Chalmers, David J. (1995) "Facing Up to the Problem
of Consciousness. Journal of Consciousness Studies 2(3):pp.
200-219.
そこでさっそく心についてのモデルであるが、いわゆる Neural correlates of consciousness (
NCC) という言葉がある。これは日本語に訳すならば「意識に相関した神経活動」となり、要するに意識が働いている時に脳で活動している神経組織という事である。DNAの発見者の一人であり、その後心と脳の研究に進んだ
Francis Crick と神経学者
Christof Koch による概念である(Crick
and Koch, 1990)。
Crick F and Koch C (1990) Towards a neurobiological
theory of consciousness. Seminars in Neuroscience Vol.2, 263-275.
彼らは意識活動は、最小の神経メカニズムとして抽出できるのではないかと考えたが、そこで基本となったのは、神経ネットワーク、ないしはニューラルネットワークという考え方だ。脳は大脳皮質、小脳、扁桃体、視床、大脳基底核・・・・などの様々な部位に分かれているが、基本的にはどの部分も神経ネットワークである。そしてそれらのネットワーク同士がケーブル(神経線維)で繋がっているのだ。心はそれを基盤にして出来上がっていると考えるのがこのモデルである。もともとこの神経ネットワークという概念自体が、生物の神経系を観察した結果として生まれたのであるから、これが心を表すと考えるのは当然の話だろう。
この神経ネットワークという概念自体はかなり古いものであり、1950年代にまで遡るが、長い間あまり脚光を浴びていなかった。しかしそれが最近になって急に注目されるようになったのは、いわゆる深層学習
deep learing の成果である。深層学習は神経ネットワークの進化版と言えるが、それによりこれまでは到底コンピューターで太刀打ちすることなどできなかった囲碁や将棋と言った複雑なゲームが、あっという間に人間の力を超えて行ってしまったことで多くの人々を驚愕させた。これ等のゲームを考案していた研究者たちは、従来の神経ネットワークに
誤差逆伝播
back propagation などのフィードバックループを備え、自動学習をさせるという事で、神経ネットワークが瞬く間にその性能を向上させることを発見したのである。それまでの神経ネットワークでは一つ一つ問題を出してそれを正解するか否かという事で内部の素子の重みづけを変えていたのだ。いわば手動式の学習のさせ方であるが、自動学習をさせることで神経ネットワークは一人で高速での学習を行い、驚異的な能力を備えることとなった。それがいわゆるディープラーニングである。