2022年5月20日金曜日

他者性の問題 103 「攻撃者との同一化」の部分の推敲

  この「攻撃者との同一化」の具体例として、たとえば父親に「お前はどうしようもないやつだ!」と怒鳴られ、叩かれている子供を想像しよう。この場合、子供が「そうだ、自分はどうしようもないやつだ、叩かれるのは当たり前のことだ」と思うこと、これが Ferenczi のいう「攻撃者との同一化」なのだ。このプロセスはあたかも父親の人格が入り込んで、交代人格を形成しているかのような実に不思議な現象だ。もちろんすべての人にこのようなことが起きるわけではないが、ごく一部の解離の傾向の高い人にはこのような現象が生じる可能性がある。

 ここで生じている子供の「攻撃者への同一化」のプロセスのどこが不思議なのかについて改めて考えよう。私たちは普通は「自分は自分だ」という感覚を持っている。私の名前がAなら、私はAであり、私を叩いているのは父親であり、もちろん自分とは違う人間だという認識を持つのが普通だ。ところがこのプロセスでは、私Aは同時に父親に成り代わって彼の体験をしていることになる。そしてその父親が叩いているのは、私自身なのだ。自分が他人に成り代わって自分を叩く? いったいどのようにしてそれが可能なのであろうか? 何か頭がこんが混乱してくるが、この通常ならあり得ないような同一化が生じるのが、特に解離性障害なのだ。

この攻撃者との同一化がいかに奇妙な現象なのかを、通常の同一化のケースと比較しながら考えてみよう。赤ちゃんが母親に同一化をするとしよう。母親が笑ったら自分も嬉しくなる、痛いといったら自分も痛みを感じる、という具合にである。ところが母親が自分に何かを働きかけてきたらどうだろう?たとえば母親が自分を撫でてくれたら、自分は撫でられる対象となる。撫でられるという感覚は、それが他者により自分になされるという方向性を持つことで体験が成立する。その際は自分は母親にとっての対象(つまり撫でる「相手」)の位置に留まらなくてはならない。つまりは同一化は一時的に停止する。これが「~される」という受け身的な体験である。それは基本的に自分から能動性を発揮しなくても、いわば「じっとしている」ことで自然に体験されることだ。
 ところが攻撃者に同一化した場合には、自分を叩くという体験にまで行ってしまう可能性がある。それが黒幕人格自身の体験となるのだ。そして叩かれる側の人格はそれとは別に存在し続けるのである。

 この攻撃者との同一化は、一種の体外離脱体験のような形を取ることもある。子供が父親に厳しく叱られたり虐待されたりする状況を考えよう。子供がその父親に同一化を起こした際、その視線はおそらく外から子供を見ている。実際にはいわば上から自分を見下ろしているような体験になることが多いようだ。なぜこのようなことが実際に可能かはわからないが、おそらくある体験が自分自身でこれ以上許容不可能になるとき、この様な不思議な形での自己のスプリッティングが起きるようなのだ。

 実際にこれまでにないような恐怖や感動を体験している際に、多くの人がこの不思議な体験を持ち、記憶していることが知られる。これは特に解離性障害を有する人に限ったことではないし、また誰かから攻撃された場合には限らない。ピアノを一心不乱で演奏している時に、その自分を見下ろすような体験を持つ人もいる。しかし将来解離性障害に発展する人の場合には、これが自分の中に自分の片割れができたような状態となり、二人が対話をしつつ物事を体験しているという状態にもなるであろうし、お互いが気配を感じつつ、でもどちらか一方が外に出ている、という状態ともなるであろう。後者の場合はAが出ている時には、B(別の人格、例えばここでは父親に同一化した人格)の存在やその視線をどこかに感じ、Bが出ている場合にはAの存在を感じるという形を取るだろう。日本の解離研究の第一人者である柴山雅俊先生のおっしゃる、解離でよくみられる「後ろに気配を感じる」、という状態は、たとえば体外離脱が起きている際に、見下ろされている側が体験することになる。