Charles Sherrintgon, C. (1906)
The Integrative Action of the Nervous System.
William James (1890) The
Principles of Psychology. New York: Henry Holt.
彼らによれば、100年以上も前にCharles
Sherringtonは次のようなことを言っている。「自己は統一であるthe self is a unity」。かの高名な心理学者William Jamesもこう述べた。「意識の最大の特徴は、単一で固有であるunitary and privateという事だ」。
ある意識を持った個人と関わる時、それを自分の考えや体験を有している一つの心と見なしているなら、それは分解不可能な統一体として扱っていることになる。体験を持つ個人individual とはそれそのものを分けるdivide ことは出来ない。もし意識活動を部分に分けるとしたら、意識的な体験はその総和以上の新たなものなのである。したがって意識活動を純粋な意味で分割することはできない。この様な考え方は近年ではBernard Baars らによるGlobal workspace theory として提示されている。
Edelman とTononiの「心は一つ」という考えをもっとも端的に示しているのが、「神経参照空間 neural reference space」(p.164)という概念で、これは特定の心理現象の際に活動している神経細胞群をさす。そしてこの空間はN次元であるとする。ところがこのNはその体験に付随している神経細胞の数であり、それを彼らは103~107 と表現している。すると一つの体験はこのN時空間の一点に表されるということになる。そしてある瞬間の体験が唯一の点として表される以上、その心が部分であると考えることに何の意味もないことになるのだ。
以上の論述により主張したいのは、そもそもある種の体験を持つことができる意識に「部分的な意識」は存在しない。その様なものを措定すること自体が誤謬なのである。あるとすれば例えば狭い、薄い、しかしそれなりに全体性を保っている意識なのである。そして少なくとも私たちが臨床的に出会うDIDの患者さんの交代人格はそうではない。はるかに立派で形の整った意識であり、独自の体験を有しているのである。
ではどうして過去の碩学たちが部分、等と言い出したのであろうか? それは私には明らかなことのように思える。それはDIDは統合されることで治癒するという固定観念なのだ。すべてはそこから来ている可能性がある。統合が治療である以上、今の存在は部分と見なすしかない。しかしそれはジャネの行った第二原則、すなわち意識はそこから何もかけたりしないという原則に反する考え方なのである。