本章では主として現代の精神分析における解離の問題について論じる。これまで見たように精神分析では Freud がごく初期の頃に解離の概念を棄却したという経緯がある。それ以来精神分析の文献に解離はほとんど現れなかったのである。しかし近年解離性障害に関する議論が精神医学の世界で多くなってきたこともあり、精神分析の世界でも解離が論じられることが多くなってきた。
私は個人的にはその様な動きはありがたいことであると思う。というよりは精神分析が心についての理論であれば、そこで扱われることのない現象などあってはならないであろう。「精神分析の創始者 Freud は解離について論じていなかったが、やはり扱われるべきである」という姿勢は至極正当なもののように思われる。
しかしここに一つの問題がある。精神分析で論じられるようになって来ている解離には実に様々なものが含まれてしまっているのだ。その結果として概念上のさらなる混乱が生じることが危惧されるのである。解離という概念と多少なりとも類縁関係にある精神分析の用語にはスキゾイド現象やスプリッティング、抑圧などの防衛機制がある。しかしそれらと解離との類似点や違いなどについての明確な議論はいまだになされていないのだ。ただ精神分析で論じられるようになっている解離には、どうやら一定の傾向があり、それは解離性障害を有する患者さんが示す典型的な、あるいは本格的な解離とは異なるようなのだ。その点を明確に示すのがこの章を書く目的である。そして私が本章で最終的に提唱したいのは、 ”Dissociation” とでも表記すべき解離、すなわち「大文字の解離」という概念である。これは必然的に dissociation、すなわちそれ以外の、いわば「小文字の解離」とでも表現すべきもの、ないしは現在の精神分析で一般的に用いられている解離概念との区分を意図したものである。
この概念の趣旨は後に詳しく論じるが、その前段階として、Freud をはじめとする精神分析に関わる先人たちの足跡をここでもたどる必要がある。解離をめぐる様々な議論や誤解はやはり精神分析の淵源と深いかかわりがあったのだ。しかしその精神分析理論の流れはいまだに小文字の解離の域を出ないのである。