他者性の問題 63 対談の文字起こし 2
野M先生 私自身はもちろんDID は現実に存在するだろうと思っていたのですが、やはり最初はやはりどちらかと言うと「取り合わない」やり方をしていたと思います。私は1990年に医師になったのですが、当時私の研修した京大病院は、何かあったら入院させるという雰囲気で、ボーダーラインでも過食症でもとにかくよくなるまで、半年一年入院しているケースがあり、病棟はかなりごった返していた感じです。私が民間の医療機関に勤めた後に大学に戻ってきた時も、その状況はまだ続いていて、私が病棟の管理をしていたのでそういう患者さんにいかに退院していただくかということに躍起になったところでしたから、解離の患者さんを入院させるとなると大変なことだなという事情がありました。それもあって私自身が解離を扱うようになっても、解離の部分にはあまり取り合わずに、もとになっている主人格の社会機能を育てましょう、という方向でしたね。しかしそうやっていてもあるケースの行動化が全然治らなかったんです。そのケースは母子家庭だったのですが、お母さんが「私はこの子の色んな人格を認めてあげたい。私はそれぞれがちゃんといるんだということを前提でそれそれに対応するようにします」という風なことを宣言されていて、そういう対応したらちょっと落ち着いて、また色々な話が出来るようになったいうことがありました。それで私はこれはもう私の対応のミスだなぁ、認識違いだなという風なこと思い、その辺りから徐々に子供が出てきたら子供扱いして僕もちょっとだけ子供言葉使ったりしてくだらない話をするとかいうことを始めました。でも私はもともとその様な対応が苦手だったんです。なんとなく医者の顔してやらないと自分が見透かされるような気がしてですね、若い頃は非常に警戒していました。それが自然にやれるようになったのは最近という気がします。今は私は自我状態療法が好きですので自我状態で逆に呼び出していうようなこともやります。
S山先生:私の最初の出会いは、ある患者さんの話にまで遡ります。その方は昔からスパゲッティが嫌いで、特にお父さんのスパゲッティが大嫌いだと言ってたのですが、その方がある日スパゲッティを美味しそうに食べていたのを見て、友達がびっくりしたという報告を聞いたんです。そういう話を聞くと、意図があってそうしているというよりは、本人もそれを聞いてびっくりしているわけです。交代人格は自然なものだな、と思いました。日常の臨床においても僕はだいたい覗き趣味なので、普通に会いたいんですよ。だから攻撃的な人と聞けば聞くほど会いたくなるんです。でもひどく攻撃的な人には会ってないのでよくわからないんですけど。可愛いところを見つけたい、話が通じるところを見つけたい。こちらがぷっと笑うと、向こうも笑うんですよ。話が展開するといろいろな面が見えてきます。岡野先生の話だと部分は見ないという事だけれど、そもそも私は人格っていうのは全体だろうと思うんです。人格として現れる時には全体だろうと思うんですね。部分的人格っていうのはちょっと矛盾するような表現だと思うんです。人格は全体だと。しかしその全体性が部分からやってくるということはあると思うんですね。部分から発展して全体性を獲得していくのが解離の創造力(想像力?)のすごさで、人格まで行ってない部分的体験っていうのは、臨床現場とかでも色々あると思うんですけれど、ちょっと中途半端ですね。
岡野:先生が人格は全体でしょ、とサラッとおっしゃいましたが先生にそのようなお話をしていただいて、安心したんです。でもこの点は後程ちょっと野M先生との論争の為に取っておきたいのですが。