2022年3月24日木曜日

嗜癖における like と want (3)

 あれから色々 like want の違いについて調べているが、けっこうそれに関する論考も多いらしい。ある英文の記事にはこんなことが書いてある。Want とは予言であるという。これを得たら気持ちいいな、という考えだ。それに比べてlike は気持ちいいな、という体験そのものであるという。たしかに。Want は結局未来形である。それは思考に基づく。それに比べてLike は直接の体験のことだ。問題は私たちはlike ではないものを間違ってwant することがあり、それが不幸の始まりだという。そしてそれを miswanting というそうだ!!!

だがこの議論はまだ今ひとつわかっていない。私が知りたいのは次のことだ。嗜癖がなぜ不幸かと言えば、それが楽しみを奪ってしまうからだ。Want が like を凌駕した状態と言えるだろう。そして want like の議論は単純に、それぞれが別々に体験され、脳でも別々の部分がそれらをつかさどっているというのだ。しかしそれは本当だろうか? 例えばタバコを止められない人の場合、おいしくて吸っているわけではない、つまりタバコを好き like ではないけれど吸いたくなる want というわけだ。しかし今ひとつわからないのは、本当にタバコをまずく感じながら吸っているのか、という事だ。少なくとも会議か何かで喫煙をずっと我慢していてようやく一服した時は、全然キモチよくはないというのはあり得ないのではないか。私がもう一つわからないのは、この like と want の違いはネズミでも同じであるというところだ。気持ちいい時の表情はネズミも人間も似ているので、それにより測るという。すると嗜癖物質を与えられたときのネズミは嬉しそうな表情をしていない、というのだ。しかしタバコを吸いたくて耐え忍んでいた人はタバコを一服することにより少なくともその険しい表情は緩むのではないか。それは例えば何か美味しいものを味わって思わず笑みが浮かぶときの表情かも知れないが、少なくともそれまで緊張していた表情筋を弛緩させるだろう。それは like とは違うものなのか? 

ここで私の考え。Want は craving 渇望と関係しているだろう。そして渇望が言える体験は、いわば不快の除去の体験であり、それは like とは違うものの、やはりポジティブな感情として分類されるのではないか。それを一応「解放 relief」 としよう。

一つ言えることは、私達は「解放」を趣味になどしないことだ。という事はやはりこれは人が積極的に作り出して体験したいものではないという事だ。さもなければ人はその種のパーティを企てるはずである。例えば息を我慢した後に吸い込むのは relief である。しかしその心地よさを味わいたいがために息を止めることを趣味にしている人などいるのだろうか?(夏に職場の帰りにビアホールで楽しいひと時を過ごすのは、ちょっとだけそれに相当するのかもしれないが。)