2022年3月29日火曜日

他者性について その51 書き起こしは続く

 なぜ他者の問題が重要なのか?

ではどうしてこの一般的に論じられることが少ない「他者」についての議論が必要かということについて最後に述べさせていただきます。結論から言えば、それは私たちが生きていくうえで他者を絶対に必要としているからです。というのも私たちは他者から承認されないと、精神的な意味で生きていけないのです。コフート的な言い方では、私たちは自己対象機能を発揮してくれる他者なしでは生き残ることが出来ません。もちろん生物学的にはそれなしでも生きて行けるかもしれません。でも他者に承認されることのない人生はとても寂しく、絶望的な孤独に満ちたものになるでしょう。

このように述べると皆さんは「でも心の中の、安定した包容力を持った内的対象像があれば十分ではないか?」とお尋ねになるかもしれません。対象関係論的な見方をすれば、そうなのかもしれません。でも皆さんは瞼の母だけで生きていけるでしょうか? おそらくそれではとても満足できないでしょう。もちろん人と関わることが嫌いな方、スキゾイド傾向の強い方は例外かもしれません。しかしいくら世捨て人のような生活を送っていても、現代のスマホ全盛の社会でSNSさえも疎ましく、一切の他者からの交流を断っている人などごくごく一部の例外でしょう。結局私たちは他者との接触や、他者から自分の存在を何らかの形で認めてもらうことなしには生きていけないのです。ただし私たちの多くはそのことを普段は気付いていない可能性はあるでしょう。
 生物としての私たちが他者を必要としているという事は、定型的な発達を遂げている子供を見ればわかります。幼少時には母親という他者に見られ、その存在を肯定されることは、子供が自己を形成するうえで決定的な役割を果たすのです。それは愛着の形成に繋がり、その人の心の基礎部分を作り上げると言っていいでしょう。母親の心に映る自分の姿を感じることで私たちは自分が誰かを知ることになります。このことはジャック・ラカンの鏡像段階の議論に通じるでしょう。

さてこのように述べると、私たちは精神的な成熟に至るためには他者として母親だけを必要としていることになるのではないでしょうか? ところがそうではないことは皆さんが一番よくご存じでしょう。私たちの多くは成長するにつれて、母親の目を逆に疎ましく思うようになるからです。あれほどいつも見てほしかった母親を遠ざけたくなります。そして私たちが本当に存在を認めて欲しいと思う人は、明らかに母親以外の存在に移っていくわけです。友達とか、先生とか、恋人とかになるわけです。