2022年3月30日水曜日

他者性について その52 書き起こしは続く

  私は最近あるDIDの女性の患者さんから聞いた言葉が忘れられません。その方は自分がいくつかの人格があるという事を母親には絶対知られたくないというのです。「どうしてですか?」と聞くと、「そうすることで母親が私のことを分かったつもりになって欲しくない。それだけは絶対嫌だ。」というのです。つまりこの方にとって母親は自分をむしろ見てほしくない、分かって欲しくない、わかられてたまるか、という存在になるわけです。相手がバイアスを持って自分のことを知るとしたら、それはさらなる誤解につながるのだ、というパラドックスがここにあります。

私はこの方の言葉はとても私が追体験できないほどに深いと思います。ただ私なりに同じような体験を持っているので、ある程度はこの話が理解できたと思っています。私は少年の頃は作文や日記などの文章を書いては母親に見てもらっていました。母親はふつう大きな丸を付けてくれました。それで私は書くという作業の楽しさを知ったというところがあります。しかし思春期を通過するあたりから、母親の目に晒されるのがこの上なく不快になったことを覚えています。私はこの「なぜ母親に知られたくないか?」という問題について、自分自身の体験と照らし合わせながら色々考えました。この3か月間で一番考え続けたテーマかも知れません。そして一応一つの結論に達しました。それは母親は結局は私にとっては決して他者にはなれないからだという事です。そしてまた母親にとっても私は決して他者になれないというわけです。そのことについて以下に説明しましょう。
 私にとっての母親は、私に対して「うちの息子はこうあるべきだ」という強烈なイメージを持ち続け、私に過剰な期待をかけていた人でした。私はある意味では母親を満足することにエネルギーを使う人生を送って来たのです。また母親は私がまだ小さく無力だった時に私をさんざん支配してきた人でもあります。つまり私にとっての母親は支配する人、期待する人、すぐイライラする人というイメージをまとっていて、決して他者になれないのです。もちろんそれは手が付けられないほど私の側からの意味付けや思い込みによりこてこてに塗られた内的対象像になっているわけです。でもそれを取り去って他者としての母親を眺めることは決してできないでしょう。それは生まれてから長い年月をかけて私の中で育っていったものだからです。