2022年3月19日土曜日

他者性 その43 昨日の続き

 では解離性障害はどうだろうか? 

ある芸能人(←ビートたけしがどこかで話しているか書いているかをしていたと思うが、ソースが分からない)が、昔ガキ大将の時に、仲間と悪さをしていて先生につかまり、一列に並ばされたときのことを語っていた。先生は彼らに片端からビンタを食らわせたわけだが、彼は自分の番が近付くと、後ろに下がって、自分がビンタをされているのを外から見ていたという。一種の幽体離脱だが、当然痛みも感じていない。私のある患者さんは危機的状況では瓶のようなものに逃げ込んで蓋をしてしまうという。するとその間「誰か」が外に出てその状況に対応するのだという。

このような体験は解離がある種の危機状況で用いられ、人は心と体を分離する能力を発揮しているように見える。これは動物の擬死反応になぞらえることが出来るであろうが、この種の反射が昆虫レベルですでにみられることからも、それが生命体にとってある種の適応的な役割を果たしていることが分かる。

このことから解離は一つの能力であり、防衛機制であるという考えが成り立つ。もちろん解離・転換症状は時には人の機能を奪い、適応性を逆に低下させるわけであるが、それは解離性の反応の結果がネガティブな影響を及ぼす場合のみを拾っている可能性がある。

ではDIDの場合はどうだろう? あるDIDを有する人が主人格Aさんのほかに、交代人格Bさん、Cさんを有するとしよう。もし彼らがAさんの人生で約束した時間に現れ、一定の役割を担っているとしよう。それは不都合なことだろうか?これはいわばシフト制の勤務形態に似ている。病棟では24時間稼働するために、看護師は例えば日勤 (0800~1630)、準夜勤 (16002430)、 深夜勤 (24000830) の三交代制が敷かれる。仮にAさん、Bさん、Cさんが起きている間に似たようなシフトを組んでいるとしよう。そしてそれぞれが自分にとってやりやすかったり得意だったりする仕事を担当できるようにスケジュールが組まれているとしたら、そこに表面上問題は見当たらない。あるDIDの患者さんは、解離を用いることのない他の人々の生活を始めて聞き、「でも人格が一人だということが信じられません。だって一人で全部やるのは大変じゃないですか!」とおっしゃったが、私には何となく彼女の言い分もわかる気がする。