DIDと刑事責任能力
以下の項目は、かなり上原氏(2020)の論文におんぶにだっこのところがある。
上原大祐 (2020)判例研究
解離性同一性障害患者たる被告人の刑事責任能力判断 : 大阪高裁判決平成31年3月27日(平成31年(う)第53号 覚せい剤取締法違反被告事件) . 鹿児島大学法学論集54 ( 2 ) 25–38.
裁判においてDIDの当事者の責任能力が問われる判例は増加傾向にあるようだ。上原によれば、わが国でDID を認めたうえで刑事責任を判断したものとしては、現時点(2020年)で入手可能な十三件のうち半数以上が、過去五年以内に出されたものであるという(上原、2020、P29)。そしてそこにみられる傾向として、DIDが被告人の刑事責任能力自体に影響を与えるものと判断された例が出てきているという。そこでまず挙げられるべきは、殺人及び死体損壊の事例で、裁判所は死体損壊罪に関してのみ、被告人が別人格の統御下において行為したと認定し、その件に関して心神喪失を認めたという。そして最新の例として、平成31年の覚せい剤取締法違反事件を上原氏は挙げている。この裁判ではDIDを有する被告人は覚せい剤使用の罪で執行猶予中に、別人格状態で再び使用してしまったという。そして原級判決では被告人に完全責任能力を認めた(つまり全面的に責任を負うべきであるという判断がなされた)が、控訴審では被告人が別人格状態で覚せい剤を使用したために、心神耗弱状態であったと認定したのである。
このような傾向は私は好ましい方向性だと考える。少なくとも従来はDIDにおいては完全責任能力が認められるという方針で一貫していた。そしてさらにそれ以前は被告がDIDに罹患していたということ自体が認められていなかった可能性がある。
ちなみにDIDにおいて責任能力を認めるか否かという議論には、精神医学的な見地が大きく関係している可能性がある。そして裁判においても、精神科医による精神鑑定の見解をできるだけ尊重するという立場が最高裁において下されているという(上原、2020、P29 )。この上原氏の紹介する覚せい剤使用のケースではそこで私的鑑定を報告した精神科医の意見が尊重された形になっているが、検察側の精神科医の意見についてはこの論文には書かれていない。とすれば弁護側の精神科医のみが鑑定を行ったという可能性があり、それが尊重されるとするならば、ある意味では当然の結果と言えるであろう。これは検察側が精神鑑定を求めなかったとしたら、そちらの作戦ミスということが言えるだろう。ところが私が関わったケースでは、検察側と弁護側が異なる精神科医から対立する精神鑑定の結果を報告するというパターンなので、どちらを尊重しようにも、最終的には裁判官や裁判員の判断ということになる。そしてその結果としてやはりDIDの場合に一般して責任能力が認められてきたのである。
この件に関して精神鑑定ハンドブックに精神科医が書いた論文によれば「治療的な観点では、通常は人格の統合を最終ゴールとしていることを考えれば、副人格というのは一人の人格に帰結させるべきであると考えることも不可能ではないであろう」とする意見もあるという。(安藤久美子「解離性障害」五十嵐禎人・岡野幸之編「刑事精神鑑定ハンドブック」(2019・中山書店)197ページ もしこのような司法精神医学の専門書(ハンドブックといえども)にこちらの意見しか書かれていなかったとしたら、当然DIDでは常に責任能力あり、という判断に傾いても致し方ないと思う。
ちなみにこの論文を書いている上原氏の意見は、かなり常識的なものと言える。P34で上原先生はグローバルアプローチを採用すべきであると書いていらっしゃる。つまり主人格次第ということだ。主人格がどうしてもコントロールできない人格が時々出現するとしたら、その責任能力はその分だけ低下すると考えるのがリーズナブルと考えられるのではないか?でもこれが殺人事件などの深刻な事件となると、なかなかこの判断が難しくなるのかもしれない。