2022年3月7日月曜日

他者性 その34 自我障害について書き足した

 部分的な心と自我障害

交代人格の他者性や個別性を有しないものとみなす傾向は、少なくとも欧米の文献には顕著にみられ、そこには交代人格を一つの自我として認めないという含みがある点について本書では強調している。しかしそれは正当な評価だろうか。一つの自我として認めないという事は「自我障害」が生じていることになるだろう。しかし果たしてそうなのか? ここで改めてこの問題を検証してみたい。
 精神医学では自我の障害として、Karl Jaspers (1997/1913) の四つの障害という概念がある。それは以下の4つの条件を満たすことによりその健全さが保証される。
「能動性の意識」 自分自身が何か行っていると感じられること。
「単一性の意識」 自分が単独の存在であると感じられること。
「同一性の意識」 時を経ても自分は変わらないと感じられること。
「限界性の意識」 自分は他者や外界と区別されていると感じられること。

ある人についてこれらの条件が満たされていない時、私達はその人が自我障害を有していると認定する。例えば「同一性の意識」とは、時間が経過しても自分は自分であると自覚できるという事だ。もしあなたが「昨日の私は今日の私とは違う」と自覚できるとしたら、それは何らかの自我の障害を意味している、という風にである。ただし「昨日の私は今日の私とは違う」という体験自体、大部分の私たちはそれが意味することを理解できないかも知れない。つまり常識的には考えられない事態がその人の自我には生じていることなのだ。ちなみに精神医学の世界ではこのJaspers の自我障害の概念は、もっぱら統合失調症において自我がどのように損なわれているのか、という文脈で用いられてきたという経緯がある。それをDIDに関しても応用してみようというのが私の意図である。

 ここで交代人格の「他者性」が伺われる例に関し、すでに○○章で用いたケースをここでも用いよう。

DIDを有するAさんが言った。
「この間車を運転していた時に、信号待ちをしていていた時のことです。青になったのに、前の車がなかなか発車しませんでした。すると後ろから突然『何をぐずぐずしてんだよ!』というBの声がしました。彼はずいぶんイライラしているんだなあ、と私は驚きました」。

ちなみにこの例でAさんは主人格、BはAの交代人格だったとしよう。この様な体験を持つAさんについての自我障害の可能性を一つ一つ検討してみよう。まず「能動性の意識」はどうだろうか? Aさんは自分がハンドルを握り、自らのタイミングで車を出発させようとしているという能動感を持つ。だからこれはクリアー出来ていると考えることが出来る。

次は「単一性の意識」だ。Aさんは自分は単独のものと感じることが出来るのであろうか? 恐らくそうだろう。Aさんは主人格として一日の大部分の活動に携わっている。そこでAさんに「あなたはあなたおひとりですか?」と尋ねるとする。普通の人なら「当たり前ですよ。その質問はどういう意味ですか?」と答えるはずだ。しかしAさんは「もちろん私Aはひとりです。」と答えた後で、次のように付け加えるかもしれない。「でもBさんもいます。」それについて意味を問われた場合、Aさんは次のように答えることが予想されるのである。「もちろん私はAであり、私は一人です。目の前の車に対して特にイライラすることなく待っていたのは私ひとりです。でもBさんは違った反応をしました。」つまりAさんはBさんと異なった意識として独立しているのだ。ただしこの件についてはさっそく異論が生じるかもしれないので、後回しにして次に進もう。
「同一性の意識」 時を経ても自分は変わらないと感じられること、についてはどうか。AさんとBさんはおそらく時間が過ぎても自分を自分と感じているだろう。だからAからBにスイッチしたという感覚も生まれるのである。また昨日はAさんの代わりにBさんが主として活動していたとしても、Aさんの方は「昨日は奥で休んでいた」という主観的な「アリバイ」を持っているのが普通である。