司法領域におけるDIDに関する見解
ところで司法領域においてDIDの関与した犯罪についてはどのような見解が一般的なのであろうか。ここで上原大祐氏のまとめを参考にしてまとめてみたい。先生のまとめに従い米国の司法精神医学において一般的な三つのアプローチを紹介しよう。
上原 大祐(2004)解離性同一性障害患者の刑事責任をめぐる考察--アメリカにおける議論を素材として. 広島法学 27(4), 185-209.
上原 大祐(2006)解離性同一性障害患者の責任能力判断 : 神戸地裁平成一六年七月二八日判決(平成一四年(わ)九一六号強盗致傷被告事件 <判例研究>30巻 2号
上原 大祐(2019)解離性同一性障害患者たる被告人の刑事責任判断・再考 : 近時の裁判例を素材として (前田稔教授退職記念号) 法学論集 53(2), 39-58.
上原大祐 (2020)判例研究 解離性同一性障害患者たる被告人の刑事責任能力判断 : 大阪高裁判決平成31年3月27日(平成31年(う)第53号 覚せい剤取締法違反被告事件) . 鹿児島大学法学論集54 ( 2 ) 25–38.
① DIDの診断があれば常に責任無能力とする立場。
② 当該の違法な行為を主人格が弁識・制御できたら責任能力を認める立場(グローバルアプローチ)。
③ 当該の違法な行為を行った人格が弁識・制御できたら責任能力を認める立場(個別人格アプローチ)。
ちなみに②、③に出てくるグローバルアプローチ、個別人格アプローチというタームは、Lindsay博士という人によるとのことである(上原、2004)。
① については、はさすがに受け入れる人はいないであろう。そもそも解離性障害は精神病として認識されることはかつてなかった。せいぜい分類するとしたら神経症レベルである。だから常識的な判断が出来ることが想定される。だからDIDであることは免罪符にはならないのだ。そのことはDIDに対してどのような姿勢を取るにせよ共通の理解と言えるだろう。
② については、これはその行為をしたのが主人格であろうと別人格であろうと、主人格がその行為を弁識・制御できるなら責任能力があるという立場だ。このうち主人格の方がその行為主であるとしたら、私たちの考えた例では違法行為をAさんがしたことになり、それについてはDIDでない人が犯した違法行為と異なる判断をする根拠はないであろう。すなわちこの場合は交代人格Cさんが罪を犯した場合が問題とされるのである。そしてこれは上述のプロトタイプに従った例ということになる。
③ については、行為を行ったのが主人格であったら議論の対象外となり、結局Cさんが行った時のみが問題になる。
結局①~③で論じられていることはプロトタイプに従ったケースであり、その場合主人格Aさんが弁別制御できるかにより判断するべきか、それともCさんが弁別制御できるかで判断するべきかという議論になる。
さてこの点に関して、精神医学的には次のような理解が可能である。まずDIDにおいて基本的に交代人格は精神病状態になりえないとすれば常にCには弁別能力はあると考える。唯一の例外は幼児の人格の場合であろうが、これはのちに論じよう。すると結局は主人格Aに弁別能力があるかということになり、端的に犯罪行為が行われたときにAにそれを止める能力があったのかということになる。この議論も実に難しいが、一つの考え方としては、Aがその際眠っていたか、あるいは今日意識状態にあったかなかったかにより、その責任能力の問われ方が異なる、ということになるだろう。