2022年2月7日月曜日

引き続き 他者性の問題 9

 人は基本的に自分が見えない(自分はそれこそ他者である?)

人はなぜ自分のことがこれほど見えなくなるのか? この問題についてもう少し考えてみた。以前も論じたことである。あなたは自分のことがある程度わかっているはずだとしよう。客観的にみても社会的な役割を果たしているし、主観的にも自分とはだれかについての迷いは特にない。しかし自分はダメな人間ではないか、あるいは自分が考えている以上に優れた人間ではないか、などという気持ちはしばしば湧く。そしてこのような自己の感覚の揺らぎは人から何を言われるかにより結構揺らぐものである。これは例の「他者から評価されるとうれしい」ということと同類のことだ。私たちはよく人から「あなたは○○だ」と言われて最初は意外でも、「私って本当に○○じゃないだろうか?」と気にする人を見ると、「どうしてそう思うの?気にする必要はないでしょう」と言いたくなることが多い。他者のイメージはある程度定まっているから少し○○なところがあったとしてもそれは気にする程度ではない、などと客観的に評価できる。しかし当の自分が同じようなこと、「あなたは××だ」と言われるととたんに気になり、そのような気になってしまう。自分のことは見えなくなるからだ。

あなたが鏡を見る。そこに映るあなたは、例えば自分はかなりイケてると思うかもしれない。あるいは老けてると思うかもしれない。しかしその鏡を見つめているうちに「イケてる」「老けてる」などの印象はどんどん遠ざかっていく。見えなくなっていくのだ。

ちょっと話はそれるが、このことは人がどのような立場にあり、どのように自分を理解しているとしても、心理療法を必要とする場合があることを意味する。たとえフロイトでも(フロイトだからこそ?)自分のことは見えないから身近なこと、弟子との関係などで他者からどう見えるかを伝えてもらう必要があるのだ。

このように考えるとどうして私たちは他者を必要としているかが今一つ分かる。私たちは他者に理解してもらいたいとともに、自分の存在を支えてもらう必要があるのだ。他者に「大丈夫、いつものあなたですよ」というサインを送ってもらえることで、私たちは今日も生きていける、というところがあるのだ。「いいね」は私たちの精神生活に必要不可欠なのだ。(と言っても私はSNSのやり方を知らないので、実際の「いいね」とは無縁であるが。)