2022年2月8日火曜日

引き続き 他者性の問題 10

 結局ジレンマの処理の仕方は弁証法的ということになる。これまでの議論で他人は内的対象としての側面と他者としての側面を共に有する可能性があるということを示した。私たちは主体でありたい、でも対象化されて、理解してほしいという矛盾を抱えている。これは主人と奴隷という関係に近いかもしれない。主体であるということは自分は完全な自由を有し、だれにも隷属しないということである。奴隷は相手の想像の意のままにされるということだ。私たちはこの両方の願望を持っているといっていい。相手から独立し、自由でいたい側面と、相手の心の世界に取り込まれたいという願望である。そして他方では私たちは他人を自分が想像する通りの、いわば自分のような側面と、計り知れない他者としての側面の間を行ったり来たりしている。このあり方は弁証法的ということになる。

ここでヘーゲルの主人と奴隷の弁証法について復習する。と言ってもブリタニカ国際大百科事典 のコピペである。

 ドイツの哲学者 F.ヘーゲルが『精神現象学』のなかで展開した,自由と権威の関係についてのきわめて示唆的な議論。人間が自由で自立的な存在であるためには,他者からの承認が必要である。そこで人々の間で相互承認を求める闘争が生じ,必然的に勝者=主人と敗者=奴隷が生み出され,その結果,奴隷は労働し,主人は享受する。だが奴隷は労働を通して自然を知り,自己を形成することができるが,主人は消費に没頭するだけで労働による自己形成ができない。主人の生活は奴隷に依存するばかりか,奴隷が自由と自立を獲得していくのに対して,主人はそれを喪失していくだけである。そうなると,みずからの意識においては自立していると思っている主人は客観的には自立を喪失しているのであり,逆に奴隷は自立していないという意識のもとで,真理においては自立的なのである。この真理が明らかになるとき,主人と奴隷の立場は入替る。ここに示されているのは,マルクスにも影響を与えたその独自の労働観だけではなく,支配-被支配の関係が本質的に相互承認を前提としたものであること,ならびに自由が本質的に最高の共同の中でしか実現されず,そこにいたる過程が不断に逆転する契機を持った闘争であることである。

  なんかピンとこないな。特に「人間が自由で自立的な存在であるためには,他者からの承認が必要である。」と言い切っているところが違う気がする。自由で自立的であるためには、それに他の人がしたがって、動いてくれなくてはならない。社長が自由で自主的に動くとき、社員はおそらく相当無理して、黙って言うことを聞いているはずだから。そのように考えるとこの表現は正しいが、心理学的な言い方だと、社長が自信をもって自主性を発揮するためには他人(奴隷)から共感され、認められる必要がある、ということか。すると支配しているはずの奴隷に、実は依存しているということになる。つまり人が自由で自主的であるためには、他人に依存的でなくてはならないという矛盾だ。