これまでに転換性障害において私たちの脳内に他者の核のようなものが現れて運動野感覚器を支配する様子を描いた。しかし私たちの体が私たちの意に反して勝手な働きをするという例はそれ以外にもたくさんある。その意味では私たちの身体それ自体が「他者」としての要素を持ち、私たちの予想を裏切ったり、勝手な動きを起こしたりする。その中で自律神経系を挙げて論じたい。
私たちの多くは自律神経と聞いて、こころとからだをつなぐ漠然とした神経系統を想像するだけかもしれない。たしかに従来は交感神経系と副交感神経(迷走神経)系のバランスによるホメオスタシスの維持という文脈で語られていた。しかし私たちがトラウマを体験した場合、そのフラッシュバックには心拍の高進、血圧の上昇といった著しい交感神経系の興奮を伴うことが多い。あるいは解離症状が顕著な場合、そこに逆に心拍の低下、迷走神経系の高進によるフリージングを伴う昏迷状態といった現象が見られる。これらは運動器や感覚器の異常を伴う事で転換性障害としての臨床的な表れをすることも多い。この様に自律神経系もまたトラウマに関連した感情や身体症状に深くかかわっていることが知られる。最近話題を呼んだvan der Kolk の著書の表題通り、まさに「身体はトラウマを記録する」のである。
van der Kolk, B. (2015). The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma. Penguin Books. (柴田 裕之訳 (2016)身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法.紀伊国屋書店.)
このトラウマと自律神経系のかかわりに関して近年大きな業績が知られる。それが Stephen Porges という米国の生理学者が1990年代から提唱している「ボリヴェーガル理論 Polyvagal theory」である。この理論は、トラウマ関連のみならず、解離性障害、愛着関連など、様々な分野に関わり、また強い影響を及ぼしている。
Porges の説を概観するならば、系統発達学的には神経制御のシステムは三つのステージを経ているという。第一段階は無髄神経系による内臓迷走神経で、これは消化や排泄を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経複合体(dorsal vagal comlex,DVC)の機能である。そして第二の段階はいわゆる闘争・逃避反応に深くかかわる交感神経系である。Porges はこれらに加えて、自律神経系の中でこれまで認知されずにいたもう一つの神経系として「腹側迷走神経複合体(ventral vagal comlex,VVC)」を発見した。彼はこれを「社会神経系」としてとらえ、神経系の包括的かつ系統発生的な理解を推し進めたことにあるが、なぜこれを「社会神経系」と呼ぶかと言えば、他者との交流は身体感覚や感情と不可分であり、それを主として担っているのがこの神経系と考えられるからだ。つまり自己と他者が互いの気持ちを汲み、癒しを与え合う際に重要な働きを行うのが、この腹側迷走神経複合体というわけである。
Porgesの理論によれば、私たちが環境との関係を保ったり絶ったりする際に心臓の拍出量を迅速に統御するだけでなく、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。私たちは通常の生活の中では、概ね平静にふるまうことが出来るが、それはストレスが許容範囲内に収まっているからだ。そしてその際はVVCを介して心を落ち着かせ和ませてくれる他者の存在などにより呼吸や心拍数が静まり、心が安定する。ところがそれ以上の刺激になると、上述の交感神経系を媒介とする闘争-逃避反応やDVCによる凍りつきなどが生じるのである。このようにPorgesの論じたVVCは、私たちがトラウマに対する反応を回避する際にも自律神経系が重要な働きを行っているという点を示したのである。
ところでポリヴェーガル理論は、感情についてどのような知見を与えてくれるのだろうか? そのヒントとなるのが、Porgesのニューロセプション neuroceptionという概念である。知覚perceptionが意識に登るのに対して、ニューロセプションは意識下のレベルで感知されるリスク評価を伝えるものであり、身に危険が迫った場合に思考を経ずに逃避(ないし闘争)行動のスイッチを押すという役割を果たす。これは感情を含んだ広義の体感としてもとらえることが出来、Damasioのソマティックマーカーに相当する概念ともいえる。そしてそのトリガーとなるものの一部は、目の前の相手のVVCを介した声の調子、表情、眼差しなどである。このようにPorges にとっては自立神経系の働きと感情との関りは明白である。
このようなPorgesの理論からは、感情と自律神経との関係はおのずと明らかである。人間の感情が声のトーンや顔面の表情によって表現され、また胃の痛みや吐き気などの内臓感覚と深く関与することを考えれば、それらを統括するVCCの関与は明らかであるとも言える。VCCは発達早期の母子関係を通して母親のそれの活動との交流を通じてはぐくまれ、発語、表情などに深く関与する。その中で感情体験は身体感覚や内受容感覚も複雑に絡み合って発達し、その個の自然界における生存にとって重要な意味を持つのである。
私たちがこれまで論じてきた他者性の観点からは、このニューロセプションの独自の動きが私たちの身体に他者性を付与するものと考えることが出来る。意識に上る知覚(パーセプション)とは違い、それ以外の様々な感覚が自律神経系を通して処理され、それが感情へと結びつく。人は思いがけず涙ぐみ、また怒りを覚える。「身体は嘘をつかない」と思うと同時に「身体が私を裏切った」という感覚を持つのもそのような時ではないだろうか。その時私たちの身体は自律神経=感情システムという「他者」を自らの内に感じるのだ。
私たちの多くは自律神経と聞いて、こころとからだをつなぐ漠然とした神経系統を想像するだけかもしれない。たしかに従来は交感神経系と副交感神経(迷走神経)系のバランスによるホメオスタシスの維持という文脈で語られていた。しかし私たちがトラウマを体験した場合、そのフラッシュバックには心拍の高進、血圧の上昇といった著しい交感神経系の興奮を伴うことが多い。あるいは解離症状が顕著な場合、そこに逆に心拍の低下、迷走神経系の高進によるフリージングを伴う昏迷状態といった現象が見られる。これらは運動器や感覚器の異常を伴う事で転換性障害としての臨床的な表れをすることも多い。この様に自律神経系もまたトラウマに関連した感情や身体症状に深くかかわっていることが知られる。最近話題を呼んだvan der Kolk の著書の表題通り、まさに「身体はトラウマを記録する」のである。
van der Kolk, B. (2015). The Body Keeps the Score: Brain, Mind, and Body in the Healing of Trauma. Penguin Books. (柴田 裕之訳 (2016)身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法.紀伊国屋書店.)
このトラウマと自律神経系のかかわりに関して近年大きな業績が知られる。それが Stephen Porges という米国の生理学者が1990年代から提唱している「ボリヴェーガル理論 Polyvagal theory」である。この理論は、トラウマ関連のみならず、解離性障害、愛着関連など、様々な分野に関わり、また強い影響を及ぼしている。
Porges の説を概観するならば、系統発達学的には神経制御のシステムは三つのステージを経ているという。第一段階は無髄神経系による内臓迷走神経で、これは消化や排泄を司るとともに、危機が迫れば体の機能をシャットダウンしてしまうという役割を担う。これが背側迷走神経複合体(dorsal vagal comlex,DVC)の機能である。そして第二の段階はいわゆる闘争・逃避反応に深くかかわる交感神経系である。Porges はこれらに加えて、自律神経系の中でこれまで認知されずにいたもう一つの神経系として「腹側迷走神経複合体(ventral vagal comlex,VVC)」を発見した。彼はこれを「社会神経系」としてとらえ、神経系の包括的かつ系統発生的な理解を推し進めたことにあるが、なぜこれを「社会神経系」と呼ぶかと言えば、他者との交流は身体感覚や感情と不可分であり、それを主として担っているのがこの神経系と考えられるからだ。つまり自己と他者が互いの気持ちを汲み、癒しを与え合う際に重要な働きを行うのが、この腹側迷走神経複合体というわけである。
Porgesの理論によれば、私たちが環境との関係を保ったり絶ったりする際に心臓の拍出量を迅速に統御するだけでなく、顔面の表情や発話による社会的なかかわりを司る頭蓋神経と深く結びついている。私たちは通常の生活の中では、概ね平静にふるまうことが出来るが、それはストレスが許容範囲内に収まっているからだ。そしてその際はVVCを介して心を落ち着かせ和ませてくれる他者の存在などにより呼吸や心拍数が静まり、心が安定する。ところがそれ以上の刺激になると、上述の交感神経系を媒介とする闘争-逃避反応やDVCによる凍りつきなどが生じるのである。このようにPorgesの論じたVVCは、私たちがトラウマに対する反応を回避する際にも自律神経系が重要な働きを行っているという点を示したのである。
ところでポリヴェーガル理論は、感情についてどのような知見を与えてくれるのだろうか? そのヒントとなるのが、Porgesのニューロセプション neuroceptionという概念である。知覚perceptionが意識に登るのに対して、ニューロセプションは意識下のレベルで感知されるリスク評価を伝えるものであり、身に危険が迫った場合に思考を経ずに逃避(ないし闘争)行動のスイッチを押すという役割を果たす。これは感情を含んだ広義の体感としてもとらえることが出来、Damasioのソマティックマーカーに相当する概念ともいえる。そしてそのトリガーとなるものの一部は、目の前の相手のVVCを介した声の調子、表情、眼差しなどである。このようにPorges にとっては自立神経系の働きと感情との関りは明白である。
このようなPorgesの理論からは、感情と自律神経との関係はおのずと明らかである。人間の感情が声のトーンや顔面の表情によって表現され、また胃の痛みや吐き気などの内臓感覚と深く関与することを考えれば、それらを統括するVCCの関与は明らかであるとも言える。VCCは発達早期の母子関係を通して母親のそれの活動との交流を通じてはぐくまれ、発語、表情などに深く関与する。その中で感情体験は身体感覚や内受容感覚も複雑に絡み合って発達し、その個の自然界における生存にとって重要な意味を持つのである。
私たちがこれまで論じてきた他者性の観点からは、このニューロセプションの独自の動きが私たちの身体に他者性を付与するものと考えることが出来る。意識に上る知覚(パーセプション)とは違い、それ以外の様々な感覚が自律神経系を通して処理され、それが感情へと結びつく。人は思いがけず涙ぐみ、また怒りを覚える。「身体は嘘をつかない」と思うと同時に「身体が私を裏切った」という感覚を持つのもそのような時ではないだろうか。その時私たちの身体は自律神経=感情システムという「他者」を自らの内に感じるのだ。