2022年2月4日金曜日

偽りの記憶 論文化 16

 自己欺瞞

人はかなり頻繁に自分自身にとって好都合な嘘をつく。そしてそれを真実のこととして処理してしまう傾向もある。これをここでは自己欺瞞と呼ぶことにしよう。この問題についてはかつて別の著書で論じたことがある(岡野、2017)。心理学者ダン・アリエリーは、人がつく嘘や、偽りの行動に興味を持ち、様々な実験を試みつつ論じている。

(「ずる嘘とごまかしの行動経済学」櫻井祐子訳、早川書房、2012年)。
 アリエリーは、従来信じられていたいわゆる『シンプルな合理的犯罪モデル』(Simple Model of Rational Crime, SMORC)を批判的に再検討する。このモデルは人が自分の置かれた状況を客観的に判断し、それをもとに犯罪を行うかを決めるというものだ。これは露見する恐れのない犯罪なら、人はそれを自然に犯すであろうという考え方である。実はこの種の性悪説な仮説はすでに存在していた。
 しかしアリエリーのグループの行った様々な実験の結果は、SMORCを肯定するものではなかったという。彼は大学生のボランティアを募集して、簡単な計算に回答してもらった。そして計算の正解数に応じた報酬を与えたのである。そのうえで第三者に厳しく正解数をチェックした場合と、自己申告をさせた場合の差を見た。すると前者が正解数が平均して「4」であるのに対し、自己申告をさせた場合は平均して「6」と報告され、二つ水増しされていることを発見した。そしてこの傾向は報酬を多くした場合には、後ろめたさのせいか、虚偽申告する幅はむしろ減少したという。また道徳規範を思い起こさせるようなプロセスを組み込むと(例えば虚偽の申告をしないように、という注意をあらかじめ与える、等)によっても縮小した。その結果を踏まえてアリエリーは言う。
 「人は、自分がそこそこ正直な人間である、という自己イメージを辛うじてたもてる水準までごまかす」。そしてこれがむしろ普通の傾向であるという。
 つまりこういうことだ。釣りに行くとしよう。そして魚が実際には4尾釣れた場合、人は良心の呵責なく、つまり「自分はおおむね正直者だ」いう自己イメージを崩すことなく、人に自分は6尾釣った(ということは釣った2尾は逃がした、あるいは人にあげた、と説明をすることになる)と報告するくらいのことは、ごく普通に、あるいは「平均的に」やるというのだ。
 話を「盛る」という言い方を最近よく聞く。私たちは友人同士での会話で日常的な出来事を話すとき、結構「盛って」いるものだ。それはむしろ普通の行為と言っていい。「昨日の私の発表、どうだった?」と聞かれれば、「すごく良かった」というだろう。たとえ心の中では「まあまあ良かった」でも。相手の心を気遣うとそうなるのがふつうであり、このような「盛り」は普通しない方が社会性がないと言われるだろう。これは礼儀としての「盛り」でも、例えば「昨日すごくびっくりしたことがあった!」などと日常のエピソードを話すときは、たいして驚いた話ではなくても、やや誇張して話すものである。これなどは「弱い嘘」よりさらに弱い「微かな嘘」とでも呼ぶべきだろう。そしてアリエリーの「魚が6尾(本当は4尾)」はその延長にあるものと考える。この様な嘘を本稿では自己欺瞞による嘘と呼ぼう。問題はこのような嘘は恐らくそれを事実として確信することにかなり近づいているという事だ。自己欺瞞の嘘の場合、私たちはその虚偽性をどこかで意識していて、同時に否認している。そしてそれが虚偽記憶を生む素地も提供するのである。なぜなら「魚を6尾釣った」と公言することで、前述した言語化することによる記憶の歪曲はより成立しやすくなるからである。そして数週間後、あるいは数か月後は実際に魚を6尾釣ったという記憶に置き換わる可能性があるのである。